外来語の用法について

 わたしたちは文中にさまざまな外来語を挟みます。たとえばそうだな「パースペクティヴ」とかね、いや、いや、今日は「認識論に対する新しいパースペクティヴ」(?)云云などと小難しい外来語を駆使して読者を煙に巻く悪徳評論家を弾劾する風なマネをしたいのではなく――まあ、前述のようなやり口に限らず、作文の凡人たるわたしたちが言葉を交わすにしても、日本語のままでいいものをホイホイ英語に置き替えるという無意味窮まりない*1行為は嫌いなのですが――今回の問題は、名詞よりも動詞とか形容詞、発語者の態度というよりは文自体から受ける違和感についてです。例示します。わたしたちが外来語を文中に組み込むとき、たとえば

 君はユニークな考え方をするね。

 とか、

 今後、電気ガス水道すべての供給をストップする。

 というような言い方をしますが、さて、あなたは「ユニークな」とか「ストップする」という言い回しに違和感を覚えたことはないだろうか? ないですか。ありませんか。この類の言い回しにあまりに慣れてしまって、なんとも思いませんか。もう少し調べてみましょう。手許に英和辞典がある人はためしに引いてみてください。ユニークとは元来 "unique" であり、「 unique - 独特の」、あるいはストップとは "stop" なのであり「 stop - を止める」といった具合に語と語の対応がなされていると思います。
 ここで何が気になるか? それは、この辞書的意味を文中に当てはめてみれば一目瞭然です。

 君は独特のな考え方をするね。

 あるいは、

 今後、電気ガス水道すべての供給をを止めるする。

 ね! オカシイでしょう。キモチワルイでしょう! ヒーヒヒヒヒッ! ハハハハハハッ! いやっ。いやいや。ちがうか。こりゃ、どう見ても屁理屈だと。これは外国語 - 国語間の連絡の性質を利用したトリックだと。辞書の意味をそのまま飲み込むてめえが誤謬だと。そう仰るわけですね。じっさい、僕もそう思います。しかし、僕の主張したいことは確かにこういうことなのです。僕は外来語を組み込んだ日本語を読んだり聞いたり、書いたりする際、ときたま上のような文を読んでいるかのような違和感を覚えるのです。
 そもそも、外国語(この場合は英語)と、日本語の文法というのは異なります。具体的に言えばたとえば英語には助詞がない。動詞が格助詞の意味を含んでいたりするわけです。つまり、言葉をあてはめる枠組みが異なるから辞書に載ってる意味をそのまま代入することはできない。結局、僕の違和感はここに発するのだと思います。これ、ムリヤリ代入してないか? と。英語のコトバは日本語に(文法的に)なじまないのに、付け焼刃的に、形の合わないパズルのピースを力ずくで嵌め込んでいる……。これでは周囲との関係がギクシャクしてしまうのも肯けます。


 しかし、さらに考えてみると、実際は「代入式に外国語を導入してきた」のではないだろう、ということに思い当たります。日本語の文に外国語を組み込むにあたり、外国語を日本語化する工程を具体的に考えてみると、たとえばこうなるはずです: "unique" をカタカナ表記に(むりやり)変換して「ユニーク」にし、さらに“な”をくっつけて活用させ「ユニークな」と形容動詞っぽくすれば、「強力な」「大変な」なんかと同じように日本語として自由に遜色なく使える。 "stop" にしても「ストップ」とカタカナ表記にしてみて、これを丁度「観察する」「混雑する」などと同様に「ストップする」と活用させれば問題なく運用できます。……つまり、外国語のコトバをそのまま語幹として日本語に取り込んでいるわけです。あとは時間の問題で、人びとがこれらの語を日常的に使い、次第に定着して日本語の中に混じり込めばこれで帰化完了です。事実、国語辞典を引いてみれば「ユニーク」とは形容動詞、「ストップ」とは動詞(サ行変格活用)、という具合に日本語の一員として顔を並べています。こう見てくると、これらの外国語は、もはや立派に日本語化したのだ、と言えそうです。それがすなわち「外来語」だったわけですね。


 以上、そういうわけになっております。外国語を日本語に組み込む工程を蔑ろにして、 unique や stop を無理やり引っ張ってきて文中にブチ込んだようなイメージでいたからミョーな気分にさせられたわけですな。書き始めた当初は、「外来語の使用はその外国の文法に基づくべし! たとえば『君は unique 考え方をするね。』『今後、電気ガス水道すべての供給 stop 。』と書くべし!」と主張しようとしていたのですが、今思えばこっちのほうが不気味よねー。日本にいながら外国のルールを尊重するより、郷に入りては郷に従え、というほうが今思えば自然ではある。

*1:「いや、意味がある」と知るかたは御一報ください