縦書き横書きの違い

 広田修さんの詩を Word にコピーして適当に組版して印刷する。とうぜん、読むために。
 組版作業のなかには、横書きを縦書きに直す、というものも含まれていた。
 ここで一つの疑問が生じる。
 縦書きにするのになんの意味があるのだろうか。僕があたまに置いているのは、その昔、高校 3 年のときに文化祭のために短篇小説を提出したときのことだ。あのとき、本にされたいわゆる活字よりはインターネットの日記サイトに親しんでいた僕は、その小説に関してもなんらの疑問をもたず横書きのまま(つまり Word のデフォルト設定のまま)印刷して提出した。で、提出先の図書館の司書さんに文句を言われたのだった。曰く、横書きで気持ち悪くないのか、と。まあこれには、横書きのくせに章立てが漢数字だ、という件も含まれてはいたのだったが、後日読んだ、生徒が書いたと思われる編集後記には「今年は横書きだけでした驚愕」という意味のことが書かれていた*1ので、やはり和文は縦書きに限るという意識は、特にこういう文学のようなものに関心がある人びとのあいだでは常識なのだろうなあと思うのです。だが、その当時の僕は――横書き日本語の文化に慣れ親しんでいた僕は、その常識を疑わしく思った。縦書きにするのになんの意味があるのだろうか。と。だって考えてもみてよ、横書きを縦書きに、縦書きを横書きにしたところで文章の意味が変わりますか? 適切に配置されていさえすれば的確に情報が伝達できる、それが言語とゆう記号の強みではなかったか、とは言わなかったが、でも実際タテガキとヨコガキの違いは、少なくとも論理的に説明できるレベルでは“無い”ように思うのだ。
 しかるにいま、僕は縦書きを積極的に支持するマネをとった、と。どうしてくれんだと。あの頃の俺の意思を見捨てんのかと。いう話はしていませんが、しかしあの頃とは意識が変わったのは事実といえます。今の僕は、すくなくとも詩を読むに関しては縦書きのほうがよりよい、適切だと思っている。でさ。さっき縦書きと横書きの違いをまあ少なくとも論理的に説明することはできないと言いました。それはつまり、これらの違いは感覚のレベルにしかないということです。そうだそういえば例の司書さんも僕の横書きと漢数字の齟齬を“「気持ち悪くないの」”と問うたのだった。まあ要するにそういうことですね。結局、縦書き横書きどちらに“慣れている”か、その点なのだと思います。一方に慣れていることが他方を気持悪いと思わせるわけです。今のぼくはまがりなりにも縦書きの日本語をよく読んできて(特に詩はほとんど縦書きのものしか読んだことがない)、だから縦書きが自然であるように思われるというだけだ。横書きにすると内容のなにかが失われたり味わいが変わったりするのではなく(いわばテクスト自体が変化するのではなく)、ただ読む側の眼がすこし戸惑って十全に作品を味わえないということ。縦書き横書きどちらかが原初的に悪、という話ではなく、より多数派が快適に読めるのはどちらか、という話。なのだと思います。だからこの話の結論は、文学作品を縦書きに印刷するのはユーザーサービスのため、ということですね。

*1:この思い出はhttp://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/20090205/1233803800の第一段落なかごろにも書いた