2009年に書いたこと

 自分を振り返るという視点でまとめているので、「重要な指摘」とか「面白い」とか言ってるのはあくまで自分にとって、であることを先にことわっておきます。 10 個くらいに絞ろうと思ったんだけどできませんでした……。もし、ここに挙げたなかでいくつか読んでやろう、という人があれば、タイトルや自己コメントの部分を見て引っかかったものをぱらぱらと読んでいただければ幸いです。では一月から順に。

WW 問題その2 - 楡男

 一月十日。俺用語でいっていたところの「 WW 問題」について。この日記から俺はなんも進歩してねえじゃねえか、ということがあらわになってしまう、重要な指摘が複数含まれている日記。

さいきんの楡( 2009 年センター試験直前) - 楡男

 一月十四日。年中写真ばっか載っけてるブログを好ましく思わない僕だが、外出日記が面白い、というのは否定しがたい事実だ。実世界との接触、大事よねー。

センター試験エピローグと生活はまだ続いてく - 楡男

 一月十九日。センター試験で手痛く失敗した直後の。なぜかドラマチックな内容に。万葉集読みたいよなあ。

1月26日 - 楡男

 一月二十七日。センター試験失敗をひきずってるの巻。そのセラピーとして、そしてこういう心境のときならなんか出るかも、という打算も半分あって、一日のあいだ思いついたことをせっせと書きしるしたもの。結果、一日の生活の多面性も表れているし、なかなか豊富な話題が出ていていい。ウェブ写経はオススメ、ですが自分もあれ以来実施していない。
 今年の私の日記がいちばん面白かったのはこの一月かなあ。やっぱり。大きな試験に落ちるというのはまぎれもなく確定的な、否定もごまかしもできない、つまり自覚せざるをえない敗北なのでした。

僕が勉強してこなかったことへの一つの言い訳 - 楡男

 僕が勉強しないのは「時間があっという間に過ぎる」のが怖いから、という説。全面的に受け入れる気にはならないが、今読んでも「一理ある」と思う。

せつなさ考 - 楡男

 せつなさがやるせないのは、それを表現する機能が人間にそなわってないから、という説。さいきんはせつないなんてことがぜんぜんない。しかし代わりに妙に涙もろくなった。

隣接国が多い国ランキング - 楡男

 僕のネット活動史上最も人気が出た記事。未だに「国名+隣接」とかで検索で来る人が絶えません。まあものすごい量の検索ワードをバラ撒いたことにもなるので仕方ないんですが。

あいさつ - 楡男

 三月二十三日。なかなかいい文章。一番乗りばかり持てはやされるのは理不尽だよね、というのは今でも思う。

twitter をめぐりめぐって - 楡男

 三月三十日。このころはすごく思いのままに綴っていた期間。妙なテンションだ。

ウヱブのなかの言葉から - 楡男

 四月二日。躁みたいな文章ですね。なんでこんなの書けたんだろう。

努力についてながながと、再確認ならびに整理 - 楡男

 たぶん今年最も真剣に書いた記事。いまの僕の生活観の根底にあるものを述べた。努力できたのは誰のおかげかと言えば、誰のおかげでもないと僕は考えてます。それはいわば「神様が与えてくれたもの」であると。もちろん神の存在は信じてませんが。

たぶん人間と人間の関係とかだ - 楡男

 五月四日。コミュニケーションに関して遠巻きに。現実はけっこう窮屈なのよね、という主に話。

沈黙中 - 楡男

 六月二日。大学入っての感触など。今年で一番忙しかった時期だ。仕事があるのは大事だしお金も大事。あとは現実との接触ね。

「意味がないことに意味がある」、そんなんじゃあ……ダメだ!というのは、要するにカッコつけなんでしょうケド。 - 楡男

 六月二十八日。くそっ。面白い。やっぱり或る程度精神の緊張がないとだめだな。あとブランクがあるとたいがい面白いのが書けます。おためしあれ。

ブツ ブツ(8月になりました) - 楡男, II - 楡男

 八月一日。あまり書いてはいなかった気がするが今年の夏休みはだらだらで散々でした。今はつけていない紙の日記のような感触。ひとが頻繁に改行するのはどういうときかと考えたとき、ひとつは深刻なとき、と思いつくが、そいつは撤回したい。文章が深刻になるときは改行されやすいが(また、改行すると深刻っぽくなるが)、そのとき同時に本人が最も深刻なのかというと――。

東京彷徨者 - 楡男

 九月六日。おそらく今年一番長い日記。山手線を一周しようとした記録。経験としては大きかったかなーと振り返る。

生活改善メモ;あらためて - 楡男

 自分が高校くらいからずうっと考えてきたことのまとめ。理論面はたぶんこれで完成してると思っている。あとは実践篇だよ。

twitter使わない理由なんてわざわざ考えなきゃいけないのか - 楡男

 九月十一日。夏休み末。この文章は自分でもよく書けたなと思っている。

周囲の環境がすべてと言えるか - 楡男

 私につねにまとわりつくこの不明瞭感を哲学的に攻めてみる、といったおもむきの記事。人間の意思というものを否定すると、権利までも否定することになる。まあなにより自分に意思がないと認めるのはけっこう勇気の要ることです。この意思ってやつは僕のなかでは重要で、最近気づいたところでは「尊敬」にも関わってくるようです。それはまたのちほど。
 ざっと眺めてみると、ある時期に集中して面白い日記が出てるなあ、というのが分かりますね。受験であたふたしてた不安定さが出てたやつらと、長い休み中、退屈の末に飛び出したものどもがそれ。あとは、やや忙しく充実傾向にあった生活のなかふと思い出して綴ったものが少数。
あと、抜粋。
 「「俺」「僕」「私」など、よくある一人称がことごとく代名詞たりえなくなってきている昨今(これに関しては保留さして)、こういう手(筆者註:「朴」という一人称を用いること)もアリか、と思ってもみる。」(1/24)
 「「自己保身のためだけに何かを言う/言わずにおく」というのは極力ヤメにしたい。」(2/8)
 「たぶん生活は「つなぎ」の連続だ。」(8/27)
 「日記を書いてて気持ちがいいのは自分のふだん思っていることを言えたときだよねえ」(10/20)
 「「みんな違ったふうに感じ、思い、考える。誰ひとりとして同じ人間などいないんだ」という認識と「みんな案外おんなじようなことを考えるもんだよな」というものとをアウフヘーベンすると、「みんな違うとこもあるし、同じところもある」というモノ凄く平凡な結論に至る。」(11/3)
 「なにかに参加するための理由なんてそんなバクゼンとしたもんで充分なんだろうな。」(11/7)
 「作品を作るには動機が必要なんだろうけど、だからって作品の部分部分それぞれが何かのメタファーであったらちょっとやだなあ、とは思う。」(11/24)