批判・軽蔑

 け消しました。一旦イライラを連ねて捨て置いたが、やはり違うのだよな。とりあえずそれは形に残しておくべきものでないことを思う。それでは、憤りはどのように捉え、処理すべきか? ネットで誰かが何か言ってるのを読んで「それは違うだろう!」と、半ば怒りながら思うことがある。だいたいそういう(僕が読んで怒りを覚えるような)言葉は“軽蔑”を含んでいて、あと“正論”である場合が多い。なぜ怒るかといえば「その正論が一体誰を幸せにするのか*1」ということでして、生産的に見せかけて実際のところは非生産的な*2発言というのが嫌いなんです。「なにか言った気になってる」というのかな。で、えーとまあ、こんなところが僕の不満の中身だったわけですが……、こうして書くのには問題があるわけです。まず、とうぜん、正論を批判しているということ自体が正論になってはいないか? また、軽蔑する人を悪く書いたが、そこにも軽蔑が含まれているんじゃん? ということになる。これに対する僕の答えをさっさと言ってしまえば、「たしかに僕は『正論を批判する正論』を書き『軽蔑する奴を軽蔑』した」。その点で僕自身もその誹りを免れ得ないと思う。いや正論自体とか軽蔑自体を嫌悪すると言うのではないんです。正論を軽蔑の道具に使うとか、つまりそれは同意によって馴れ合いの楽しみを得られるだけで、人をおもしろくない気分にするだけではないか?(このへんは僕の被害妄想の暴走があるかも)、ということ。ああ、それを具体的に言うと「たとえ twitter にあっても単なる『○○はクズ』みたいな発言がクズだという誹りは免れないよ!」ということになって、ああ、もう、さっき書いて消したやつを丁寧に書いてるだけじゃないか、こうなれば最後まで書きますけど、あと、言葉遊びが少しく顔を出しているのは許容していただきたいんですけど、結局、ツイッターでも何でも、公共の場に発信してることは変わんないんですよ! と。「この速さなら言える!」と思ったかもしれないけど、ちゃんとログ残ってますからね! と、とととということで、なんですが、なんかだんだん僕が悪人みたいになってまいりました。あああっ。こうなると僕も、批判している僕もなんだかんだでいい気になって正論を連ねて軽蔑しているに違いないのです。それじゃいけない。やはり公共の場にあるかぎりは、人を楽しませるなり、共感させるなり、有用な意見を述べるなり、つまり何らか世の中を活性化するような発言を意識すべき(というとまた暴力的になるかな/このサイトがこれらいずれかを満たしているかどうかは検討の余地がありますが)だと思う。そこで、“批判”あるいは“軽蔑”というのは何らか上記のごとく役立ちうるのか? というのを考えなきゃならんと思うんです(思いました。自分の問題として)。で、ちょっと急ぎ足になりますが、批判は、それが正しく用いられれば、「正しい議論」あるいは「より適切な/満足のいくような議論」のために役立つと言えます。まあその「正しい批判」とやらが難しい、「言うのは簡単だけどさぁ……」という話なんですけども……、今はそこまで立ち入るのはやめときます。それで、次に移ると、軽蔑について。まず、軽蔑は役立つか? と書いてみる。そりゃ役立たねえよ、という声が聞こえる。軽蔑は(ごく緩く言い換えて)ネガティヴな感情の発露ですから、これはやっぱり友人同士で言いあって笑うという有用性はあっても、大多数の人はやっぱりつまんないと思うんじゃないかなー。と。素直に考えてみた。ごくまれに軽蔑さえもおもしろい人がいますが、それは特殊例ですからねえ……。やっぱ、軽蔑は含めるべきじゃないと思う。僕はこの文章に軽蔑を含めたつもりはないんですが、なんとなく滲み出ちゃってるかもなあ。こうなると人間性の問題になってくるのかもしれない。

*1:from http://replica-love.jp/sayonana/archives/000678.html

*2:ここ自信ないので間違ってたら教えてくれると嬉しいです