なに反省してんだよ

 平日午前 11 時から日記って一体全体なんなんだよおめー、といった感じですが、とにかく、自分の中の何かを落ち着かせるために日記を書きます。「何か」とは何か? その言い回しは、対象の存在のみ確定しているが、ただしその「対象」が具体的に(抽象語も含めて)名指しできない場合に用いられる。しかし、その「何か」、用いられるときは、いつも、だいたい、少し頑張れば名指せるものなのではないだろうか……。とすると今、言った、落ち着かせたい自分の中の「何か」とは一体何か? と反省してみると、この状況、すなわち、偶然的に、あるいは必然的に平日午前 11 時にパソコンがついていて、今それを閉じようとした。のだがその前に何かしら行動をしておきたい、ネット巡回のみではやや心細い――このような“ざわめき”を、それは格好いいものではないから、「何か」と言ってお茶を濁したのだ、と思いあたる。なぁにやってんだ? 俺。さっきから。つか今から早めにご飯食べて、出掛ける予定があるんです。ならば尚更か。
 関係ないが僕がむかし(まあ高だか 1,2 年くらい前ですが)思いついた箴言に、「焦るな、急げ」というのがあって――いやあ「箴言」なんて言うのは中身がどうであれ恥ずかしいんですが――、今、まあ、どうなんかな、と思ってもみる。このコトバの内訳は、つまり、焦っていると不注意になるし、待ちうける「結末」に目が眩んで、たとえばテスト前に語句の単純暗記に走ったりするわけで、あんまし良くないと考えられ、一方で急ぐというのは、しっかりと目的を見据えて、そこから真直ぐと走り出しているような感覚で、「やるべきこと」は確実に、しかし快速でこなしていく、という positive なイメージを前提にして言っています。まあでもそんなのはレトリックに過ぎないよ、と言える気もする。「急ぐ」によくないイメージを割り振ることも可能だし、多くの人は「焦る」に至らないとそもそも「急ぐ」こともできない、と見ることもできる。まあまあでも箴言ってのはもともとレトリックの産物なのかもしれないから、言っていることが厳密には正しくなくとも、それはそれでいいのかもしれない。何か心を奮い立たせる材料になるなら。僕は悲しいことに未だに焦っていないのですが、せいぜい急ぐことだけはしておこうと思う。