現代詩手帖 2009年11月号

現代詩手帖 2009年 11月号 [雑誌]
 定期的に本屋に行かないとこういうの見逃しちゃうなあと。もちろんネットであまり情報を仕入れてないからこういう言葉が出るわけですが、にしても実際に本棚眺めて目にとまるという“見つける”機能はまだまだ現実の本屋のほうが効率がいいようには思う。アマゾンの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」機能もいいが……と、この続きを書こうとしてすこし考えたのだが、本屋で眺める場合はタイトルが目にとまるわけで、これはみずからの主観に引っかかる本を見つける方法といえる。いっぽうで、アマゾンの上記の機能は、不特定多数の足跡を手掛かりにして品物が選び出されるわけで、これは客観的にすぐれた(多くの人の目を引く)本、僕の使い方だといわゆる定番書を見つける方法と捉えられる。……なんてのはタイトルと関係ありませんでした。すみません。
 普段雑誌を買わないので、この現代詩手帖をこんかい購入したのもその特集が魅力的だったからにほかなりません。「「手帖」新人欄の半世紀」。ということで、「現代詩手帖」の創刊から今まで 1959 年から 2009 年の新人欄に掲載された詩のダイジェスト版(と呼んでいいものか……)となっております。うーんそう言われたら読みたい気になってきませんか? 僕はなりました。それで買ったんです。(?)
 ちょっと僕の現代詩にたいするイメージ・期待を書きこませてもらいます。プロフィール欄に書いたような気もしますが僕は無意味なもの透明なもの不条理なものに惹かれる傾向があり、ギリシア彫刻やルネサンス絵画よりも現代美術だし(たまには美術館行かないとなー)、算数の明快さより現代数学のわけわかんなさに惹かれるし(本屋で読めもしない数学書を眺めているのは僕です)(わけわかんないものじゃないのだが)、同様にして詩もまあ古典と呼ばれるものよりも現代詩というもののほうに興味がある。うそ。万葉集とかも読みたいです。あと途中まで読んだ室生犀星の詩もほんとにいい。しかし現代詩の(それこそ)わけわかんなさは本当に目を見張るというか、あれで真剣にやってんのかというか、現代美術だったら作品はイミフメイにせよ何やら釘を大量に打ち込んだり、地図を切りぬいて繋げてみたり、キャンバスに絵の具を何重にも塗ったりしてとにかく熱意や緊張みたいなものは伝わってくるんですが(まあたまに便器にサインしただけ、なんてのもあるが)、現代詩ときたら数行数十行の活字ではないですか。それで訳のわからん言葉が連ねてある、もしかしたら適当に書いてんじゃないか、この前の俺の日記みたいに……というふうには、まあ考えられるし、小学生のピカソの作品に対する評価も、まあ、そんなところなのだろうと思う。でも不思議なもので、読んでみると、ワケわからんはずなのだが適当に言葉を連ねたアレとは一線を画すなにかが知れるというか、さっきも言ったような、緊張、が伝わってくるんだよな。その奥になにが隠されているのかはわからないけど。
 ううむ長くなっているがついでに加えとくと、僕は作品の奥に隠されたなにかを暴くことに情熱を傾けられないほうの人間で(……そうか、とりあえずなんでも疑いなく信じてしまうこの性格はこういうところに繋がっているのかもしれない)、芸術作品に関しても「このところは何々を表していて……」と講釈されると興ざめしてしまいます。謎は謎のままでいてほしい、解き明かされてしまうなんてさびしい、ということではなく、そこに通俗的な「意味」があってしまうことがつまらない、といった気分だろうか。というので、しばらく前に行った或る美術館で、作品の手前にあるプレートに作者みずからの解説が書いてあったのにはちょっとガッカリでした。まあ、作品を作るには動機が必要なんだろうけど、だからって作品の部分部分それぞれが何かのメタファーであったらちょっとやだなあ、とは思う。……あー今になって後悔が寄せてきた。なんかすごく無責任なこと言ったような。作者側になってみないとわかんないんだろうな。

 しかしまあですますの溢れるこういう文章書いてると、そういう気分は出ておもしろくはあるんだけど、ちょっと自分、偽ってるよね、という声がしてくるのも事実だ。べつにこういう自分が自分のなかにいないわけではないんだが、そこばっかり出てるかなーっつう。

問題にとりくむために

 前まえから言ってるように、僕は問題解決が下手だ。それは怠惰で動かないのもあるが、より突き詰めれば「あたりまえのことができていない」からなのだと思う。それは何故だか知らん。けども、めんどうなステップを踏むのを厭うたり、途中で気が変わってしまったりして、結局のところまともに地道に取り組んでいれば成功しただろうことをみすみす逃しつづけている。
 ……ということと関係あるかわからないが、その「あたりまえのことをする」ための方法を思いついてみた。即ち、問題を出して、その解法を考え、しかるのち実行する。これ、問いを立て、解決方法を考え、実行する、というあたりまえのプロセスをドリル形式にしただけです。あるいはあたりまえのプロセスを定式化して言葉にしてみたわけです。さいきん「暗黙知」と「形式知」という言葉がよく頭に浮かんでいて、言葉にしてきちっと表現するのはとても大事だよなあと知りはじめているところです。この暗黙知形式知という言葉も言語化、ですよね。いまさっき出した解決法は、言語化する(道具として使えるようにする)のに加え、設問化して当人にそれを解くように志向させている、と説明できる。ただまだ使ったことないので効果のほどはわかりません。
 関連して、いい話を読んだのでリンク掲げときます:
http://www.a-l-p.net/htmls/omoidasu.html

勉強の極意は、
わかる
覚える
思い出す
に尽きます。

 そのことについてよく体得している(真に理解している)人だから書けることだと思います。「思い出す」というのはうすうす意識はしていたし少しずつ実行もしたことはあるけど、つい忘れがちなことです。知ってはいても自由に使えないことは多い。それは能力の問題というより、ついつい使うのを怠ってしまうんですよね。その意味で、こういう文章を読んだりなどして同じことでもたまに意識にのぼらせることが大切だよなあと思います。

理解するということ

 私見では、拒否反応というものは未知のものに対してだけ生じる。だから、目をそむけたくなる物事に対しても、それがどういう次第を経て成り立ち、どのようにしてここに現れてきたかを考えれば、直視することができるかもしれない。たとえば吐瀉物を見ると自ずと吐気がしてくるけど、食べ物と飲み物が歯で咀嚼され飲み込まれて胃のなかで半ば溶かされ混ぜ合わされたものがなんかの拍子で体外に出たものだ……と考えればさほど気持悪くないのではないか。ごめんなさい気持悪かったですね。

さいきんの主な自戒(小人物)

 さいきんの、ちゅうか、今までずうっと出来てないことなんだが。数日まえの日記の冒頭で「あんまり心に余裕がなーい」と述べたとおり、さいきんは特にそんな傾向ぎみかなあっと。うすうす感ずることの目立つ数日です。それで、心に余裕がないとどうなるかというと、落ちついてすべき物事に落ちついて取りくめない、という、たいへんにミステイクな状況に落しこまれるわけです。物事に落ちついて取りくめない。これはホントに由々しい事態なのでございます。由々しい。ああー由々しいなあ。ワァオ由々しいぜ。由々しいジャン。由々しいでろ〜〜〜ん。由々しいバラスガスダスマカス。いや。あの意味はないんですけどこの由々しいシリーズには。ともかく、他のひとの日記さえ満足に読めないっつうのはマジで厭だす。満足に読めないっつうのは、べつに現実問題どうしても時間がなくて、死ぬ、というわけではなく、「時間がなくて、時間がない」という意識がつねに心の奥ふかくにわだかまっているゆえ、落ちついて腰を据えてじっくりと他のひとの日記を紐解き読み解き文句をつけたり感心したり頭のうちで勝手に添削したり(失礼だ)ができていない、ゆう意味で、そもそも文章を眼で追うまでもなく何んちゅうか文章の表示されたモニターをスクロールしつつ一瞥しただけで何か何か作業が完了したかの様な気になってしまっている。のです。ヤバいです。これはいけません。悲しいです。心はシラフですが客観的に見てこれは悲しいことだし、生活が、そして僕の世界が平板に固まりつつあるのを想う。いま、僕が小説を書いたとしても、なんかすごく無彩色というか、主人公こと僕が歩いたり電車に乗ったり授業を受けたりしているあいだダラダラと無軌道に考えるというより意識をよぎることばかりがつらつら綴られるだけの内容、つまり要するにこれは前から問題にしていることだが、僕のうちには利用可能な風景が乏しい。いろんなものを見てないから。毎日同じ景色、毎日同じ生活っつって歌の文句みたいだがそんな感じで、歌の文句がそんな感じなんだからみんな多かれ少なかれ似たようなことを考えてるに違いないんだけど、まあーとにかく改めて省みるにこの風景の乏しさね。これが人生の乏しさ、人間の乏しさにほとんど直結している感じがするね。というので、色んなとこには行くべきだし、行ったら行ったでそこをじっくりと見ていくべきだ。どうもいい景色に出会っても歩む脚が止まらないので困ってます。勉強もどうも基礎体力でこなしてる感じがあって、基礎体力でこなせるのはそれでさっさと済ませればいいんだけど、じっくりと身体に刷りこむというか飲みこむというか馴染ませるようなものまで基礎体力分と同じ構えでやってしまっている。のでまずは時間を確保することが大事だし、あとはなるべくじっくり物事につきあうよう意識しとかねば。