努力についてながながと、再確認ならびに整理

 んーと、どっかで書いておかないとこの先ずうっと引きずると思われるので、ここで一つはっきりまとめておこう。前から似たようなことには繰り返し触れてきたけど、はっきり、ど真ん中を述べないとだめだな。ちなみに、その「似たようなこと」は:
http://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/20090404/1238841391
http://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/20090420/1240235467
このへんに書いてあります。でも、これらの記事は「本当に言いたいこと」の周囲をぐるぐるまわるばかりで、遠心力でヘンなとこ飛んでっちゃって、結果的にまったく違うことを言ってます。
 それで、本題。ひとくちで言えば、僕は「努力する才能」というのは断然あると思ってます。いや、思ってる派です。というのは、根拠はないので。だが、「ある」という思いは根強い。僕の生活がそう思わしめるに充分な示唆を与えつづけてきたからです。逆に言えば、「努力する才能なんてないよ」という人は、その人の生活がそう思わしめている……、つまり、どちらにせよ確証なんてない主観的判断である、という、あたりまえのことなのではありますが。……
 んーと、まあ内容そのものにはさほど関係ないんですが、このもやもやの出処ははっきりしているので、それも提示しておかねばまたもやもやが残るかなあという感じがするので、参考としてリンク張っておく:

「努力して成功した人は努力する才能があったんだよ」っていうのは無益さAAAのかわいそうなメタ視

http://twitter.com/kubomi0727/status/1450539458

これです。あ、もう今では特に攻撃したいという思いはないので、書いたブチさんにしても(もしこれを読んでいたら)適当に「ふうん」と思ってくださればいいと思います。あるいはとうぜん読まなくても構いませんし。もちろん「それはおかしい」と感じたらなんらか文句言ってくだされば対応します。
 いきおい、自分の違和感を託している対象を提示してしまったので、この発言をもとに考えてみる。さっきから言っているのでわかるように、そもそも僕には「『努力して成功した人は努力する才能があったんだよ』」というのは「メタ視」や言葉遊びなんかではなく“一つの真理”にしか思えないんですね。おそらく、この発言は「能動的に“するもの”である努力を先天的な才能の問題に帰して“努力した”ということの価値を踏みにじるな」あるいは「努力しないやつが“いやぁ俺は努力する才能がないからなぁ”とふんぞりかえっているのが腹立たしい」ということを言っていると思うんですが(僕はそのように読んだ)、……が、……ああ、それなら別に問題はないのかな。なかったですね。すいません。確かに努力の価値を蔑ろにしたり、自分が努力しないことを正当化して怠けたりしている、ということは低劣です。だから、上記のような含意については、僕はなんら違和感を感じることはない、むしろ同意して然るべき場面だった。
 ただ、これは単なる主観の域を出ないわけですが、僕はあくまで努力は才能の問題であると思う。いや、才能というか、能力。そもそも僕なんかは努力しようとあれこれ考えていた人間であるわけで(それが愚かだと言えばそうかも知れませんが、とにかく事実そうだった、随意に努力できない人間がいた、ということを言いたい)、僕に言わせると努力っつうものは「やろう」と思ったらば直ちにできる、というもんではない。人間の意思なんて言うほど自由じゃなくって、わりと周りの状況に左右されてしまうものだと僕はけっこう深く信じてます。だから、努力するにはそれ相当の精神の強靭さや、環境のよさ(それは単に「家が広い」とかそういう意味ではない)、強烈な動機づけ、そして、それらに繋がる、それまで生きてきた道のり、が、絶対に必要なのだと考えます。いや、絶対というか。かなり重要だと思います。それは個人の意思では(特に、早い段階では)どうにもしがたいものだと思う。
 ……上記のように思わない人もいるだろうけど、それは「努力の仕方がわからない」レベルにいた経験がないからじゃないかな。下の人は上のことをわからずにとやかく言うかもしれないけど、上の人にとっても、そこにいた経験すらないような下の世界がある。もちろん僕は努力しないことを正当化したくはないし、そうする気はない。ただ、上の発言から「努力もしないで何ほざいてやがる」という“上からの声”を読み取ってしまって(僕の劣等感の所為かも知れません・脚色が過ぎていたらごめんなさい)、なんか誰でもやろうと思えば努力できると簡単に言っているような感じがして、努力しあぐねてぐずぐず過ごしてしまった僕としては、なんだよこの野郎!とイスをガタガタ言わせていたのでありました。
 誤解を恐れるから改めて言うが、努力は尊いものである。ただし、ある意味、努力できたこと自体、ひとつの奇跡なのだと思う。いや、もちろん、エスカレーター的にらくらくと努力できるわけがない。それが可能であることが周囲の環境のおかげであるにしても、努力にともなう苦しさとか、そういうものは、厳然としてあるはず。「偶然、努力できた」と言うにしても、それがその努力の価値や、努力した本人の価値を一向に減じるものではない。努力できるというのは実際モノ凄いことだ。だからこそ、努力できた人はあんまり傲慢に振舞わないでほしいんだな。……とにかく、こう長々と書いて言いたかったのは、「努力するには偶然的条件(それは人間形成にかかわる)がかなり重要である。ひとはそれを才能と呼ぶのだと思う」ということであり、同時に、「でも努力の価値みたいなものは厳然としてある」ということでした。
 ……いや、努力もしてこなかったのに、出過ぎたマネをした(皮肉じゃないですよ、この思いは確実に劣等感としてある)。でも、自分のために書いとかなきゃなあと思ったので。最後に、努力がへたくそな私たちはどうするかといえば、努力を軽んじず、運が悪かったと諦めず、努力できるようになるために頑張るしかないと思っている。努力する能力というのは、努力しだいでつけられると信じている(こういうこと言ってるからだめなんだろうか/いちおう「努力」の内容レベルが異なることを注記しておく)。要するに、だんだんと殻を食い破っていくしかないのだ。以上、失礼しました。