行動できない壁

 マルゲリーテ、ブドウジュース。おはようございます。楡&男です。ちと無理してます。それほどにアノコロの文章具合からは遠ざかっている我が感覚であります。さて、
 ものごとを解決するとき、言っても仕方ない、という場合はおうおうにしてあるのでございます。つまりは、行動あるのみと。いやいやむしろ、たいがいの場合は行動だけで過ごしてしまえるのです。考えるのはたまにでいい。ただ問題なのは、上記のようなことを知っているいないにかかわらず、無駄にやたらと考えてしまう精神状態がある。行動を起こせない病と言いますか、「わかってる、わかってるけど……」というやつで、こう言っている人を見ますと、健常者は、じれったいなあ、わかってるんならさっさとやれよ、と苛立ちを覚えるのは否めません。しかし、行動を起こせない本人からすれば、そこにはほとんど物質的な壁があるのでして、いや、たとえそれが心理的に構えられたものであるにしても、本人にとってはそれは本物の壁なのですから、できないものはできないと言うしかないのです。こういうときは、原理的に無理、という感じがある。それで、健常者がこういう場合を考えるには自分のレベルをそこまで落とさなければならないのですが、しかしそれは自分のスタート地点からずっと後ろだったりする。つまり……そのレベルがあまりに低くて今まで経験がなかったから、そのレベルまで下がるやりかたがわからない。そうなると、助けを求める本人は基本的に、もう自力で上がってくるしかないんじゃないかと思います。それも、目の前の壁を削ったり、地面に穴を掘ったり、足場を作ったりして。んー、あんまりいい比喩じゃないですね。実は、ほとんどの場合、壁はむしろ、「それがもともとなかった」ことに気づくべきなのだと思います。どうやら向こう側が透けて見えているぞ、と。
 すごい、自分でもなんか釈然としないまま書いてたんですが、内容はわりと正直に書いたつもりです。ただこういう内容は後ろめたさはつのるよね。敗者の苦しい弁明にしか見えないわけだから。結局、こういうことに妙な厭らしさを感じるのは、実際にこれは醜い内容なのか、あるいは、書いている僕の根性が悪いのか。そもそも、この文章が「言っても仕方ない」を前提にしているという矛盾もある。ところで、壁をなくすにはどうすればいいでしょう? 一つは、徹底的に考え抜く、というのがある。まあ「言っても仕方ない」んだけど、それは中途半端に考えただけのことだから。中途半端に考えるくらいなら他の方法探せ、ということ。思考によって壁を“実際に存在するもの”としたまま「壊す」なり「乗り越える」なりします。で、もう一つは、特定の方法を持たないんですが、探しまわる、ということになるかなあ。いろいろしているうちに「壁はなかった」と気づく、あるいは壁のことなど忘れてしまうはずなのだ。
 あーなんかまあいいか。僕自身はいま、さほど何を思っているわけでもないので。今日は昼からすこし遠くの図書館に行く予定。


 あと、どうしても近似を感じてしまうので、この内容は永井均『〈子ども〉のための哲学』で哲学について言ってることと近いので影響かもしれません、と付け足しとく。