状況下( WW 問題その4)

  • まず受容側から。すなわち読んでいる僕の視点から。しばらく観察していると、どうやら「わからない」は「すんなり読み下せない」と言い換えることができるようだ。つまり、文章一般に対してなにか、耐性みたいなものが落ちているらしい。したがって、僕が「わからない」を覚える対象は評論はもちろん物語から日記そして会話文までに至り、もはやあらゆる文章をすんなりと読み下せなくなっている。
  • といえども症状は言うほど重くはなくて(いや実際の症状の重さはその道の人に診てもらうべきですが)、たとえばセンター試験の国語の問題ならば、けっこう、分析的に読めている。去年悩まされた文章表現についての問題も、難なく解ける。集中していれば読めるのです。しかるに日記に対しては集中が起こらない。もしかすると、机に向かって集中する習慣がついてしまったから、その他の場面では集中しないように身体が躾けられてしまったというのか。すると解決案としては、パソコンを机に載せて読めというのか*1。ありうる話。にしても、そんな外面的な違いによって僕は悩まされたくなかった。
  • あと発信側から。書くひとたちの意識の変化について。昨日「日記の質の変化」と言ったけど、たぶんこれはこれで当たっている。というのもウエブツーポイントゼロだのブログロンダンだの、現在のインターネットの動向を示唆する(よね? あまり動向とか見てないので自信ないのですが)用語を一瞥すればそれは至極当然、知ってら、改めて書くなど愚、ということにもなりましょうが、まあいいか。さて従来の、と言ってもずいぶん前のことですが、日記書きの環境と、今のそれを比べてみると、目につくのはやはり“多様な連絡手段の解放”でしょう。はてなスターにブックマークにコメントに。それだけ反応がもらい易くなったわけです。すると、多くの人が“反応をもらう”という経験をし、その蜜の味を知り、まあ当然「もっと欲しい!」ということになりますです。それで、今度は反応がよりもらえるような記事を書こうとする。……で、「反応がよりもらえるような記事」というのは、どういうものかと申しますと、詳しく説明しませんが、とりあえず色んな事に意識的になるはずです。「周りの目を気にする」というやつ。いわゆる「ウケる」記事を書きたいわけですから。あ、この説明では内容の明確化を図っているためにイヤラシイ筆者像が浮かんでくるかもしれませんが、僕もあなたもこの意識の影響は大なり小なりあるだろうと踏んでもいます。ええと、それで、読者のお気に召すような内容……とまではいかずとも、そんな気分がだんだん忍び込んで効いてくるわけです。その結果が近頃の日記サイトの動向だと思うんです。いや行動範囲狭いのであまり断言はできないのですが、なんかカッチリと固めている推敲の末、みたいな文章が増えた気がする。もちろん、そういう文章が悪いわけではないし、読者の目を気にすることにより記事の質が上がるのはほぼ疑いなくよいことですけど、ただ毎度毎度そんな調子だと疲れるよね、という話。いや、実際んとこ、どうなんかね。
  • さてセンター試験は遂に隣の部屋です。昨日は布団に入りながら希望得点率の勘定をやっていて、いやあな感じだと思った。そして試験が終わった後、見える世界はどう変わるのか。試験ごときでですかあ。うーん、おとといのいかにも「日記」らしい日記を書いていまさら気づいたが、今年の僕には例年にも増してなにごとも起こっていない。ゆえにセンター試験の如きにある程度大きな意義を持たれてしまっているのだ。別に悪いこととは思わないけどさ。

*1:今はパソコンを椅子に載せて使っている