日記サイトを読むときの構えの変化

 タイトル読んで「また懐古か!」そんな光景が浮かびます。またも懲りずに化石自慢のような様相を呈するアリサマで、お見苦しく申し訳ないなと思いながらも、そういう意識で書いているわけではないです。どちらかというと自分の位置を把握しつつその変化に対応していくような動きであります。
 というわけで。主題的には、こういうこと→テキストサイトの絶対数の減少からだけではなく、はてなという制度が日記系コンテンツを主とするウェブサイトをごっそり包括してしまったために、従来のような構えで日記サイトを閲覧ライフを実現するのは困難となりました。な。当たり前なんですが。まあ、自分のために書いているのだからいいよな。そいで、従来とか言いましたが、実際はかなり前前からこういう体制になってはいるのでしょうね。僕が最近ようやく気付いただけで。


 なんか中身の規模に対して大風呂敷ひろげてしもうた感があります。今日僕が書きたいのはたった小さな一点なのでして。こっから本文。はてなという制度が行ったことの一つは、ダイアリーだけでなく、アンテナ、ブックマーク、ハイク*1、などの非日記サービスを日記執筆者に提供したことです。これらはまあ、見ての通り、多くのユーザーに受け容れられ、利用されています――このことは僕にはすこし意外だったのですが、あるいは多くの日記執筆者はそのようなサービスを期待していたのかもしれません。テキストサイトって管理人同士の交流が多かったと言うし。――それで、その結果どうなったかというと、一人のひとが書くところの場所が分散しました。ダイアリーも使うけど、他ダイアリーへの直接コメント、ブックマークにおけるコメント*2、グループ日記、ハイクなんかにも、あと、はてなじゃないけど mixitwitter という「書く場」もできた。ということで、場が分散して、一人のひとがいろんな所に書くようになる。すると、読者はそのすべてを追いかけるのが困難になってくる。つまり、「○○さんの文章」として一まとめにして購読する、という読みかたは時代遅れになりつつある(既にそうなのだろうけど)、ひいては、ひとつの人格として書き手を見る、ということができなくなってきている、と言えそう。「この人が書いてるから」という選び方はもう断罪モノなのです。


 ……なのですけど、実際はそんなことないと思ってます。少なくとも「ダイアリー」「日記」「ブログ」という枠がある限りは。というのは、あたりまえのことですが、ネット上に存在する人格だけがその筆者のすべてではないから。考えてみれば、われわれがネット上になにか書く際、その人の全人格(そんなものがあれば)の一部しか文章には反映されていないのであり、そういう「全体の一部しか見ていない」という意味では、すこしばかり情報が減った(あるいは増えた?)だけで昔も今も変わっとらんのだなあ、と。また、その文章がそのときの全人格だ、という言いかたもできるし。いずれにせよ、ネット上で統一的な人格を感じることは、まだできているようです。ただ、ある人の文章を根こそぎ読みたくなったとき、日記のほかにブックマークうんぬんを一々見て回らなきゃならんのは面倒だよなあ、ということです。本当に言いたかったのは最後のそれだけ。

*1:僕は未だにハイクというものをよく知りません。これは半分自慢だけど、親しくない概念を日記内に盛り込むのにはすこし抵抗があるので書いとく

*2:コメント類はリンク言及と交代されたと考えてます