書けない私が書くために

 なぜ書くか。なぜ日記を書いて、世界のどこかに向けて発表するか。僕はとかく行為の理由を考えてしまう。そういう性質である。なんで大学に行くのか。なんで浪人したのか。なんで哲学科にしたのか。思い返せば、しかしそれらの無数の問いに対して、はっきりした答えを与えられたことは、おそらく一度もない。いろいろ理由らしきものをくっ付けてみたことも数度ではないが、結局のところ「なんとなく」なのです。僕の行動の、決定の根拠は。フィーリングでしかないのです。べつに大学に行かなくとも勉強はできる。どうせ勉強は自習が中心なのだから、大学のレベルがちょっと違うくらいで何が変わるわけでもない。学部学科については最後までぼんやり数学と迷っていた(まあ今でもそうだ)。これらの考えも、もちろん正しいだろうと思う。でも、僕は大学に行って勉強したほうが何かといい気がしたし、浪人してもう一年勉強してみたいと思っていたし、……それはそれなりに理由になっているような。まあとにかく、そんなように思っていたし、哲学科のほうが、まあ、なんだろう。なんだろうなあ。
 ということで一つの線に沿って自らを述べていくとほとんどいつもうまくいかない。というか書いてる途中で「ウソくせぇ」と自分で思ってしまうんですよね。「しかしそれらの無数の問いに対して〜」あたりから思っている。これはつまり他者を強く意識した文章を書いてるつうことで、いきおい自分を虚飾する感じになってきているつうことで、だから「ウソくせぇ」という言葉が出てくるのだろうと思います。むろん他者を意識しつつも嘘を言わない文章も書ける人は書けるし自分だって頑張れば書けないこともないのだろうが、ふとブラウザ開いて 30 分完結で書いてしまうと、つい文章のリズムや表現の心地よさを――作文の快感を優先してしまい、ああ何だ俺何書いてるだとなって所定の 2 倍ほどの分量をさらに付けたしてしまう破目に遭うのです。
 前回のものに関連して。この世にちらばる問題は根本的に解答が確定不能である。だから真面目に、どこまでもまじめに問題に対する答を追及しようという態度をとれば、結局なにも書けずに終わる。だが大半の人はそのことに耐えられない。なんのために書いて発表するのかって言えばそれは他者に読んでもらいたいから、ってのが大方の結論だろうと思う。だから答えが出ないことを(自覚して・無自覚にを問わず)認めたうえで、最終的な答えは出ないことを前提に、なにか書こうとする。このとき少なくとも 2 つの手がある。一つは、そこに横たわる根本的な問いに触れないように、それを所与のものあるいは存在しないものとして、自分にわかっていることだけを書く。それで完結させる。この「根本的な問い」ってのは、べつに哲学的な形而上学的なとかいうんではなく、原理的な不可能さといいますか、……ああああ違うか。彼ら(不定三人称複数)にはこの世界の根本的原理を探究しようなどというたわけた幻想がないのか。その書き手はものごとを理屈で説明することを好まないので、そういう匂いが嗅ぎとれなかったので、僕はなんかつまんないな、と思っていた、そういうわけか。……となんとも唐突に整理がつきましたが、話をつづけます。で最終的な答えをバシィと世界に付きつけてやれない、そんな状況のなか、なにか書こうとすれば、それは 2 つの道がある。ひとつは「書ける範囲で完結させて書く」ということでした。もう一つは、わかんねえわかんねえと言いながらわけわかんないこと書く。これは僕のことです……と言って気づいたが、それは整理が足らないだけではないのか。あ。