バランス(僕はこういうことを書きたいのか?)

 じゅうぶん意識してはいたつもりだが、俺はやっぱり容易に平衡を崩して、塞いだ気持ちになってしまいやすい。
 ……いや、別になにか重い深いことがあったわけではないですが。ちょっとしたことがあり、ちょっとそういうことを思ったので、どさくさにまぎれて編集画面を開いてみただけで。あと、その「ちょっとしたこと」の他に、今日は特に誰とも会わなかったっつうのがある。これは小さいようで大きい、まあこれを「小さいようで」なんて言うのはもしかすると僕だけかも知れなかったのですが、ともかく人と会わない日というのはどうにもアフターの心持がすぐれないのでありまして、だから折にふれてそーゆう機会は作っとくべきだし、というよりは
 というよりは、ここで僕がなにを問題にしたいかと言えば、こういう「人に会う機会をつくる」というような“必要な”作業をついつい怠ってしまう気質なんだよな。これ、どういう意味で「必要」なのかというと、ある水準以上の生活を維持するために必要、というような具合のものなのだが、かつて( 2, 3 年以上前)の僕はこの「必要」ということばを、最低限の生活を維持するために必要、という意味でとらえていたのですよね……ということを思い起こした。夏、外出先でノドが渇いても、家に帰れば水が飲めるさ〜と言ってジュースは買わなかった、或いはせいぜい水飲み場を探すところだった。高校でも周りはお茶とか買ってたけど僕は水道の水飲んでたよ。ゲームソフトは高いので滅多に買わず、娯楽は専らインターネットだった。おいおいなんか自慢みたいだな。そうねえ……確かに当時はある種のこだわりを持って行動してはいたかもしれない。しかし、こういう、生活に対する消極的な態度が僕をなにか充実した(こう言うのはなんか気恥ずかしい)生活を遠ざけていたのは確かだろうなと思うのだ。ちゅうかあの頃の僕の暮らしのあり方っつうのは生活というか不器用な言いかたすると命を延ばすみたいな感じだったのであり、
 ……なんか申し訳ない。ごちゃごちゃです。つまり言いたいのは、ある程度の(「文化的な」とでも形容しようか)生活水準を保つには、かなり整った(あるいは特殊な)条件と、絶え間ない運用が要るんだよなあ、という認識。