オーノキヨフミ『君に太陽を!』

君に太陽を!
 オーノキヨフミ。彼がどの程度の知名度をもつのか僕には測りかねますが、すくなくともこの作品が正しく売れなかったのにはこのジャケットが関係しているだろうなあ。何かの冗談にしか思えないというか。まあ、それは言っても仕方ないので、さっさと中身のほうを振り返っていきたい。
 まず気づくのは、この、ミョーに肩肘張った、力を込めた歌いかた。「ッ」の多さ。それはモノマネされやすい特徴でもあるが、たとえば忌野清志郎とかワタナベイビーのような変さとは違って、なんというか、「なんか変だ」という感じ。いわゆる天然というやつか。でもその「変さ」自体を面白がるよりも強く、「変さ」が「良さ」に自然に転化しているようにも思う。いや、忌野清志郎ワタナベイビーの変な歌いかたも良いですよ。ただオーノキヨフミの歌には“芸”になりきれていないぎこちなさがあって、でもそれでいい、と思わせるものがある。味、というやつか。
 それから、シンガーソングライター(もう死語かなこれ)というあり方、というのを意識させられる作品でもある。僕は知識に乏しいのであんまり迂闊なこと言うと間違ってそうで恐れるんですが、まあそれでも言ってしまうと、さいきんの音楽(日本のポピュラーミュージック)は個性が薄いという意識がある。すげえ懐古主義なお説教になって申し訳ないんですが、さいきんの音楽は、技術ばかりあって(知識ばかりあって)、個性がない、と。いや……なんか自分でも書いてて面白くないわけですが、要するに個性的というのは奇をてらうということではないんだな、ということを認識した。歴史的に新しい音楽、というのは今でも出てきてるんだろうな、とは思うけど、でもなんかそれはどこか産業的で、新しい“パターン”という感じであって、新しいもの、ではないという印象があるんですね。あるいは先にも述べたように、作り手側の知識が増えすぎたのかもしれない。知ってることが多すぎて、却って作るのに邪魔になってるんじゃないかな、と思った。何やってもどこか既視感を覚えてしまうような。まあ「すべての文化は盗品」*1という言葉もあるように、キサマの謂うオリジナリティもどんなもんじゃい、という向きもあるんですが、ともかくオーノキヨフミの楽曲と歌からは素材としての新しさ、みたいなものを感じた。
 新しいからいいとかじゃなく、自分の言葉で歌って欲しいんですよ。「独特の」という形容があるけど、それでもみんなが「出来がいい」なんて言うものは、特定の共通のコードに乗っ取って作られているわけじゃないですか。それは確かにすごいことなんだけど、どこか匿名性というか、それじゃ誰が作っても同じじゃん、と思ってしまう。あくまで“作品”ということで考えれば、それは質が高ければ高いほどいいんだろうけど、それだけじゃさびしいというか。ものたりないというか。客観的な事実よりも、主観的な感想が知りたいんです。あー、つまり、俺はやっぱりミュージシャンにせよ小説家にせよ、作家性というものが好きなんだよな。「すばらしい作品がそこにあれば、それでいい」などとは思わない。そこに厳然たる他者がいて、他者の言葉で語っていることを感じたい。たとえそれが、誰にも通じない言葉であったとしても。