こういう日は家で読書でもして暮らそうか

うーんと休日でわりかしヒマでもなお twitter するというのは僕として不健全だとは思うので(つまり、 twitter ってコミュニケーションツールじゃない?)、日記にてなんか書くよ。予告。

http://twitter.com/elmman/status/1898850528

 つうわけで。日記、書きます。
 何書こうかな。いやあの、↑の引用部分のところを作るのにいろいろと調べていたら何を書こうとしていたのか、何を書けたのか、すっかりスッキリしてしまいまして、いま、困惑しています。ぼくは困惑している。あーそうそう、ひとの日記を読むことはおもしろい、と、近頃はあらためて思っているところなのです。やっぱりなにをするにせよ積極性というのは必要なのであって、……大事なのであって、自分からあるていど「読もう」と思ってそれを指向しなければ、期待する効果・思いもよらなかった効果は得られないんだなあと再確認するわたしなのでした。なんでもかんでも一般化するこの癖は気をつけて扱うべき性向であろうと思います。自省します。まあ「自省します」などと宣言したところでそれが実行される保証には一向ならんというのが人間の性質であるわけですが、いや、また一般化してしまった。俺が、俺の知るかぎりただ俺一人が有言不実行の雄であります。でございます。なぜにこういうふうに矢タラ滅タラに丁寧語を用いるのか、よくわかりません。自己言及を繰り返す癖はかわりません。かえる気もありません。べつにそれは悪いこと・ひとに害を及ぼすこと・ひとの気分を害することだとはさして思っておりません。というか、ネット上ならば、自由閲覧・自己責任閲覧が名目上規則であるネット上ならば、ほとんどすべての行為は無害である、というか「それを好きなひとだっているじゃんよ」ということばによって正当化されてしまうフシがあります。そしてそれはあるていど正しいのだと思っております、が、自己責任だやれ自己責任だと唱えてトップページに卑猥な画像を置くといった行為はやはり不特定多数が目にする可能性ってやつの影響が大きくて、それは踏んだやつが悪いんじゃなくてたんなる暴力だろ、とは思います。なんの話か。まあそんなとりとめのないお話を飽きもせず、飽きてもまたブーメランの如くユーターンして気づいたらまた部屋に来てしゃべってたよ、というのが本サイト楡男のスタンスというか性向なのであります。が。なんか質問ある?
 ところで。この日記も佳境にはいった感じがいたしますがところで、ちかごろの僕の文章にはひらがなが普通のものよりも多い。多い、ことに気づかれたでしょうか? 多いんじゃないすかね。たぶん多いと思うけど。や。多いね。かなり多い。いやそれほどでもないだろ。でもまあまあ多いと思う……と、印象を検討していくほど当たり障りのない結論が出てしまうところに己の対外的性格が見てとれますが、まあさいきんの僕の文章にはひらがなが多い、というか、ひらがな多めで書いています。なぜか……というのを説明しようとすると、もうなんか「感覚に忠実にいったらこうなった」などというミもフタもナイというか実質的に何も言ってない答えが出るのであきらめますが、こういう文章ばかり書いているとだんだん思うのですね、「ちょっと変じゃね?」と。すこし検討してみる。ひらがな多めの文章を書くひととして「hituziのブログじゃがー」のあべ・やすしさんとか「青色3号」のムラシット先生とか安部公房とか、あとココロ社さんの「革命的サラリーマン宣言」にCAREERzine:サービス終了という記事がありますね。そんで、これらの文章は読みやすい。では僕の文章が読みにくいのか? というと、まあこれらの文章には劣ると思いますし、使いこなせてないなぁーと感じることも多いけど、(構成的な不備を除けば)さほどのものではないと思っているんです。まー自己評価なので説得力薄いですけど。むしろ、「ひらがな多めの文章を書くこと」自体への“変さ”があるんじゃないかと思う。変換できるのに変換しない。平均からの逃走。見ようによっては“衒い”でもある。そうそう、僕がちかごろ思うことのキーワードは「衒い」です。ま、似たようなことは前まえから思いつづけてきて、それがバシッとことばにできた、というのが実際んとこだけど。でまあ強引に結論しますが、それって書いている自分の意識の問題であって、技術的よりは人格的な変質によって解決できるんだろーなーとかなんか。それではでは。