twitter をめぐりめぐって

 昨日、そんなものを書いて、「 twitter とのつきあいかたは twitter の内と外にあり」みたいなほとんど無意味な答えを捨て置いて、僕は帰ってしまった。あれは、まずかったと思う。実のところ、僕は、最後まで集中してあの記事を書くことができなかった。メリット/デメリットを並べたところで満足してしまい、結論のところを「まあこんなもんでいいだろう」と
 トイレ行ってきます
 ただいま
 結論のところを「まあこんなもんでいいだろう」と適当にそれっぽいこと書いて終わりにしてしまったのだった。だったのだったのだったのだったのだった。この文体飽きた。とにかくまあ昨日の結論のところは何か言っているようで何も言っていない案山子に過ぎなかったのだごめんなさいということです。ただ、ひとつ、あの結論が仮に何か言っているとすれば、「もうちょい考えさせてくれ」だったのですね。 twitter と楡男を往復しつつ、意識は、正しいつきあいかたは、植物が育つようにあるいは雲が流れて晴れていくように、次第と形成されていくものなのだ、と言ったわけでして、ですから、ほんとうは「最終的帰結的結論!」を装って無理してなにかグチャッとした線のかたまりを投げつけるような真似はするべきではなかった。それにしても一向に本題が見えてこない。
 そうだ、僕らには新たなスタートラインが引かれた。
 ち、違うなあ……。とにもともかく僕は実際に昨日 twitter で実際になんか実際に書いていたのは実際なのですよね。新たなスタートラインからの出発として。 twitter との適切なつきあいかたを考えるために。それではっきり気づいたんだけども、僕は明らかなジレンマに陥っている。まあ昨日のにも書いたんだけど、すなわち「 twitter に書くと日記を書かない」という。……あれ、でもこれは対偶をとると「日記を書くと twitter に書かない」となる、変だな。日記を書いても twitter には書けるはずなのだ。対偶も真でなきゃいけないのに、お、おかしいな……。
 あそうか、順序があるから。 twitter に書いてからだと日記を書けないが、日記を書いてから twitter に書くことはできる。つまり命題は「先に twitter で発言するならば、日記を書くことはできない」、対偶は「日記を書くことができるならば、先に twitter で発言していない」となるわけだ。うわーこんなんで 250 文字も消費してしまいました。それで! ジレンマの内実がなにかと言えば、……飽きた……またあとで。
 えと。ぐだぐだすいません。と言って実際は反省していないのだから、このぐだぐだ文章が何らかの価値をもつと一旦は信用しているんだからこの「すいません」は息継ぎのようなものなのですが、それで、ジレンマの内実がなにかと言えば、 twitter は発信欲を満たしてくれる、ということですよね。僕が日記を書く原動力は漠然と「なんか書きたい」ですから、これは twitter でなんか言ってれば日記なんぞしたためる必要はナッシン・レッシンなのです。しかるに困ったことに僕は日記が好きですから、もっぱらツイッてるわけにもいかない。でも twittertwitter で便利ですから、それを捨ててしまうのも惜しい。そういうことを考えていて、なんとか妥協点を探るために実地調査を行っていたわけであります……が……ここまででひとつも話が進んでいないことに、己の愚鈍さを痛感せざるを得ません。もう 1500 字ちかくも書いている。なんだろう。やはり、書くことを前もって決められればいいのだが……いや、だいたいは決めてたんだが、その「だいたい」の輪郭を掘りあてるのに 1500 字ほど使ってしまっているという、ことを、悲しい。もどかしい。つまり今回提示すべき、新事実とは何か?
 そうそう、いったん「日記で書けそうなことは twitter で書かない」と決めてみると、発言の 8 割程度が切り捨てられてしまうことを発見したのでした。うーん、いいかげんいい加減なので結論に飛びます。僕が日記を優先する限り、 twitter を十全に使いたおすことはできない。これを前提に置いたうえで今後のおおまかな態度を妥協的に考えるならば、

  • 平時、 twitter は必要なとき(明らかに日記で書けない内容が浮かんだとき)のみ利用する
  • たまには twitter に入り浸っていてもよい。そのときは日記を書くのはあきらめる

 というところになりましょうがようやく結論の結論の段にきておいてこれほど平凡かつ煮え切らない結論というかこれは結論といわないと思うので申し訳なくなっている。もしここまで読んだというかたいらっしゃいましたらすいません&ありがとうございます&すいません。やっぱり反省します。