せつなさ考

 せつなさについて前まえから考えていた。ノスタルジアとか恋慕とか、そういった「今ここにないもの」を想起する場面において起こる感情、といったん規定していいと思うが、その“せつなさ”である。いちおうこの、“せつない”ということを客観的にはっきりさせておこう。辞書にはこうある:

 (1)(寂しさ・悲しさ・恋しさなどで)胸がしめつけられるような気持ちだ。つらくやるせない。

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 なるほど、これは僕の知る“せつない”にもおおむね合致するようだ。よく慕情の表現として「胸が苦しい」というが、これがまさに“せつない”ということなのだろう。付け加えさせてもらうと、僕は苦しさよりも“泣きたい”感じを覚える。この感情をどこにも届けることができなくて(そしてそれは当然のことだ、不在のものを慕うのが“せつなさ”なのだから)、一人で抱え込む。涙が出ればまだいいのだが、残念ながら僕の身体が、潜在意識がどこかでそれを堰きとめているらしい。少し話がずれた。とにかくこのように、どこにも届かず一人でかみしめるしかない、まさに「やるせない(遣る瀬無い)」のが“せつなさ”であり、そのことこそが“せつなさ”を単純ないわゆる喜怒哀楽とは異なる、特別な感情たらしめていると僕は見当をつけていた。
 じっさい、それは当たっていたようだ。つまり、“せつなさ”を表現する「機能」が人間には備わっていないのだ。人間は感情を主に顔の表情によって伝達する。もっとも単純な感情、喜怒哀楽はこれで済む。喜と楽は笑顔、怒は睨みつけるような顔、哀は眉をつり下げて悲しそうな顔、といった具合である。しかし、“せつなさ”を表情にする番になると、きっとみな困惑するのではないか。やってみてください。……それは「哀」でしょう。そもそも“せつなさ”は悲しいだけではない、一種甘い感覚も伴っているのではないか。……妙な顔になりましたね。悲しいような、笑っているような。でもそれを他人が見たとき、「ああ、この人は今せつないのだな」と直ちに伝わるようには思えない。……というふうに、おそらく顔によって表現できる感情というのはごく限られていて、“せつなさ”はその外側にある。だから、人が“せつなさ”を覚えたとき、それを直ちに表現することができなくて(しかも、それは表現しなくてはならないと感じられる)、もて余して、なにかどうしようもない断絶感に似たものにおそわれる。ここで、人によっては涙が出てスッキリするのかもしれませんけど、僕なんかは消化できずに引きずってしまう。それで進退窮まって、ふと思い出してノートにそのことを書きつけてみるとわりと落ち着いてくるのは、それが「表現された」からなのだろう。