僕が勉強してこなかったことへの一つの言い訳

 勉強することは時間の浪費に他ならない。この発言は問題児的だが、僕の意識の底にはこういう気分があるようだ。勉強をしているときは、時間の経過を気にしない。たまに思いだして時計を確認することはあるにしても、それは勉強が中断された、一瞬の間隙における出来事に過ぎない。勉強に限らず、いろいろな趣味に没頭しているときは――たとえば面白い小説を読んでいるときは――時間のことなど忘れてしまう。……僕はこれが、時間を忘れてしまうことがこわいのである。僕は散歩が好きだ。空を眺めることが好きだ。流れている時と、“今”を共有できるからだ。僕はいつ死ぬかわからないと気づいているくせに、まあ 80 くらいまでは生きられるだろうと思っている。 80 歳で死ぬまで、その数十年の時間を、いかにぼんやりと、無為に、時の流れを目一杯に感じながら、過ごすかに賭けていたのだ。繰り返す。僕は時の流れにとり残されてしまうことに対し、いいようのない不安を抱えていた。一人で勉強や読書に浸っているとき、自分と世界とが隔絶されているように感じた。それが厭で、今まで積極的に勉強や読書をしてこなかった。
(全面的に正しいかは保留したいが、だいたいあってると思う)