虚脱が常態だよ楡男

 そんなわけでこんなわけで、昨日から今日にかけて僕は虚脱しておりました。絶望の表現は暗澹でも発狂でも落涙でもなく、虚脱であった。……のか? 一つの試験が終幕し、糸を張りきる前に、くくりつけるための杭は撤去された。そう、いわゆる張りきった緊張がプツンと切れる、そういうことならわかる(でも今切れちゃダメよ!)。しかし、僕の糸は別に張りきってなんかいなかった。ただ、当面の重圧から逃れて、常態である虚脱に戻っただけだ。
 ……ていうか今ひとつ決めごとが着かなくて、なんかハッキリしないもんで何したら、という情況だったんですけど、かといって何時までもパソコンいじってるわけにもいくまい、と、それなりの早さで判断が来たもんで、数学の勉強をしたり、昨日買った本を読んだり、書こうとしている小説のメモを作ろうとパソコンをつけたり(勉強しろよ)で、あ、風邪気味なのもあるんですが、まあそんなこんなで本日二度目のパソコン起動につき日記を執筆している次第です、さてここ(現在)まで書くと言えることはあらかた言いつくしたことになるが、いかに。
 ところで昨日本屋行きましたけど、『万葉集』売ってなかったという。ついでに他に探していたいくつかの本までもが店頭に見えず。「ああやっぱ買えるときに買っとくべきだったか」と思う反面、「『買う』という行為そのものの意義を重視するならば、あとさき考えずそのとき欲しい本を買うべきだろう」とも思うがしかし、やっぱ「買えるときに買うべき」という結論にひとまず落ち着く。経緯はぼんやりしていて思いだすのが面倒なので省略。欲しい本だったらアマゾンを利用する手もあるがしかし――。
 さて、ところでこの「常態としての虚脱」、……んー平たく言ってしまえば“怠惰”あるいは“無気力”というヤツは、どのように克服すべきか。なるほど何もせずにボケーーッと黙っているのは快い。僕はそうして暮らしていけたら最高だとも考えている。しかし、残念ながら世界はそういうふうにはできていないらしい。さらに、ひとたび自分の不甲斐なさを顧みたときの苦痛は――。ということなのだ。苦痛を除けなければ快さもない*1。これをとりあえず自分だけで解決しようとした場合(これは僕がここ数年間意識してきた問題だ)、基本的には、その「怠惰」や「無気力」を否定する・無効化する、そしてそれを何らかの行動まで持っていく(動の慣性をつける)、これが常にできるように心の状態を整備する、と、こういうひとまずの方針を得ています。確かにこれはこれでいい。いいが、限界があるようにも思える。いやもちろん 2,3 年やそこらで限界などと線を引いてしまうのは早計だ。けど……。
 いや何が言いたいかというと、仲間がいるといいよな、と。今更ッスが。ホント今更だな。爆笑。爆笑だなんて。はじめて使う言葉じゃないかしら。へへ、へ、そういうわけでこれ以上浪人する気はありません。たぶんあまり意義ないだろうから。この 1 年で「やること」は見えてきた。人に会わねばならん。今度は大学入ります。勉強しなきゃ。

*1:まあ苦痛かつ快楽、むしろ苦痛が快楽、という状況は容易に想像できますが(たとえば体を鍛えているときとか)、この場合は快楽につながらない質の苦痛、ということで。 / あるいは、それさえも快楽に転化してしまえ! という視点もアリですが、それは根本から何か転覆させる必要がありそうで、そこまでの勇気は出ない