はてなブックマークをめぐるなにか

 まあ、普段の日記でも何度かにおわせてましたが、僕はブックマークのコメントって面白くないなあ、と感じています。もうすこし厳密に言えば、ブックマークに寄せられるコメントのうち、特に記事に否定的なものの多くに対して不満を抱いています。で、いつまでもこのモヤモヤとした不快感にとらわれているのもアレなので、そろそろ整理しておこうかな、と。いろいろ考えた結果、何種類かに意見が分かれてしまいましたが(笑)、せっかくなので全部載せておきます。それなりに推敲はしましたが、やはりどこかに穴があると思う。

1.すこし局所的な問題について:感情に対する「反論」

 感情を軸とした記事なのに、それが意見として取られる場合について。たとえば(この例示に悪意はないですし僕の心情でもありません)、「ミスチルはファンに媚びていて嫌いだ」というのは、その事象(ミスチルのあり方)を分析しているようで実は分析している対象は自分自身なので、“意見”ではありません。つまり、その「嫌いだ」という感情を掘り下げて「どのように嫌いなのか」「なぜ嫌いなのか」を説明しているに過ぎず、飽くまでその言葉の軸は「嫌いだ」という感情の表現です。なのに「いや、ミスチルは媚びてなんかいない」とかいう「反論」が出てくるのが、なんか、妙だな、と思うわけです。「媚びてなんかいない」というのもやはりただ感じたことが基にあって、だからこの手の記事というのは最初から「議論」などする余地などないのだと思ってます。ここで語られているのは端的には「記事の書き手はミスチルが嫌いだ」ということであって、「ミスチルが媚びているか否か」の是非すなわち「正しさ」は問題にされないから。なので最初からその「反論」は無意味です。正論を言っちゃうのも同様。なんでもかんでも絶対的な正しさが得られると思ったら大間違いだ! ということで。というか、まあ、他人の記事を借りて自分語りされてもなあ……、というのが率直な感想。

2.はてなブックマーク2ch

 結局俺は、ブクマコメント欄にみられる、集団でボソボソ呟いている“噂話”っぽさ、正面切って物事を言わない(そしてそれは正面切って言うほどのことではない)みたいな厭らしさ、みたいなものに辟易してるんじゃないかと思う。すると、俺はコメントする個人個人よりは、ブックマーク空間そのものが不快なのかもしれない……この仕組みの所為で、はてなの論争(?)というものは陰湿なものになっている気がする。特に、匿名ダイアリーの記事なんかになされるブックマークって、ウォッチ集団みたいになってるところあるじゃない? そういうのが2chと似てるかなあ(匿名を名前持ちがウォッチしているという点で構図は逆ですけど)。名前が見える分、なんかヘンな意識(気の利いた皮肉を言おうとか)が働いちゃってるあたり、2chよりタチが悪いときもある。ここまでくると完全に個人的な好悪の問題になりますけど。

3.結局

 僕がブックマークのコメント見てて感じることを反省してみると、「なんだ、あんまり大したこと言ってないな」というのがある。その意味で
http://anond.hatelabo.jp/20081004140546
この記事が僕の感覚に近いかな。まあなんだ、はてなってそんなに素晴らしい場所でもないぜ、ということなんだろう。こんなに多くのユーザーがいるんだから、実際の社会と似たよーな構成になるのは当たり前だし、また一方「多い」といえどもブックマークを積極的に使ってるのなんてどうせ高が知れた数であるようだから、規模の小さいコミュニティサイトのような閉鎖性があるのも仕方ないよな。うーん。適当に納得したのでこのへんで。また普通に日記書く日々に戻ります。


以下はブックマークと直接関係しないことですが……

0.副産物:我々はそのテキストを読めていない

 言葉による伝達の不確定性の問題について。すなわち、言葉で何かを言い表すと、その言葉のうちに発信者の意図する内容と離れた解釈の余地が生じるということで、あまりいい例ではありませんが、たとえば「犬は可愛い」と言う場合、その言った人が見ている「犬」が飼い犬なのか、近所の犬なのか、あるいは犬全般のことを思って言っているのか、といったことを指定してはいません。このように言葉は発信者のもとを離れると、ある程度の解釈の幅を許して伝わります。解釈の余地とは言い換えれば誤読の可能性でもあります。
 すると、おそらく“伝えたいこと”を完全に余すところなく伝えきる、というのは、言葉に頼る限りほぼ不可能なのではないかと思われます、そのうえ、ブログという環境では、文章の素人があまり推敲せずに書いている場合も多いですから、そういう記事の伝わりにくさ――解釈の幅――は、本を読むなどの場合に比べ、格段に大きいものといえます。ブログでは(比較的)誤読をされやすい、という話で、まあ、あんたらちゃんと読めてんの? という話になります。
 そういう不確定的要素が強い記事をできるだけ正しく理解するために必要なのは「文脈の共有」(「視点の共有」「問題の共有」と言ってもいいかな。)であると思います。思ったことを言葉にするときは、そこから論理(骨組み)を抜き出して抽象化し、その人の文脈(周りの風景みたいなもの)は大部分脱色されてしまいます。さらに、その抽象化された文章を他者が読み取るにあたり、内容を具体化する余地があります。その際、文章を容赦なく(不可避的に)「自分視点」で読んでしまいますから、もとの意味とはズレてしまうわけです。あるいは、文脈が書き込まれていても受け手がその文脈を充分に解せない場合、やはり受け手はその文脈を勝手にゆがめた形で、もしくは文脈を無視して読むことになります。もし同じ文脈を持っていれば、これが適用されることで発信者の意図により近い感覚で文章を理解できますが、これを共有していない場合、ズレはより大きいものになります。