表現とコミュニケーションのメモ

 表現とコミュニケーションについて考えたいと思うので、ひとつふたつメモしておく。
 NHK総合で『爆笑問題のニッポンの教養』という番組があって、これは爆笑問題の二人が学者さんのところを尋ねてまわって話をするという内容のものなんですが、ここ2回ぶんの放送は東京藝術大学の学長との話でした。放送が終わってしまったあとに報告するというのもなんですが、いちおう以下の二つに review が載っています。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20080708.html
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20080715.html
 で、その学長が爆笑問題の太田さんのコトバについて、「無駄なものが多くてピュアじゃない、伝わらない」、というような指摘をしていたのでした。
 で。何かっていうとこれを書いている僕の文章ね。それこそまさに「伝わらない」文章なんじゃないかって思ったわけだ。○○ということを世界に発信したいと思い立ち、バーっと文章を書いてみる。で、読み返す。それで、ところどころ加筆修正するんですが、まあだいたいしていることは、わかりやすくしようと具体例を足したり、書き忘れていた思念を加えたり、そういったこと。でもこれって、実はノイズに過ぎないんじゃないかしら、って、前述の番組を見てから思ったわけね。俺が伝えようとして入れたモノは、却って逆効果だったのでわ……ということになるんだな。
 でも僕は一方でノイズまみれの文章を書くのも大好きで、そういうことを自由にやるためのサイトが今のところ「妄誕F」になる。……そうそう、これに関して、逆にノイズを肯定するような(と考えていいのかわかりませんが)文章があるので、ひとつ写しておく。筒井康隆の『言語姦覚』というエッセイ集……でいいのかな、に収録されている『パロディと虚構性』という文章から抜粋。

 現在、一方に現実が虚構を模倣しはじめている事実があり、他方で文学的遺産としての虚構性によって他ならぬその文学的伝統に攻撃をかけようとする多くの作品が生まれつつある。ぼくがしようとしていることは、虚構の中にあって現実が模倣し得ぬほどの虚構性(超虚構性)を追求することによって現実への回帰を果たすことだ。そこまでやればむろん物語性などは消滅してしまうが、そうした超虚構にいたる道のひとつが、パロディだったのである。

 ……つまり、虚構を突き詰めることによって現実に帰れる、ということらしい。僕はいまひとつその意味するところを掴みかねているのですが、しばらく意識の片隅に置いておこうと思う。

言語姦覚 (中公文庫)

言語姦覚 (中公文庫)