ぼくは自分のために大学に行く

 さぁて日記でも書きますかな。こんにちは。H.N.楡です。歯がざらざらしてきて早急にブラッシングを加えたく感じられますが、ひとまずわたしの近況を自己内整理的かつ外部発信用に吐きだしておこうと思います。ぼくは都内のある私立大学の文学部哲学科に入学しました。何度か哲学科入学の理由を訊かれたのですが、正直なところ判然とした理由はありません。いや、なるべく虚偽を排して言えば、「興味があったから」ということになります。でもそれは胸を張って言える「理由」に当てはまらない気がします。つまり、興味程度ならばわざわざ大学に来る必要はない、というわけです。これは要するに贅沢だということで、大学に行く多くの人に対する異議申し立てにもなりましょう。大学に行って、学問修めて、それが何になるんだ社会の役に立つのかボケ、という話ですね。ぼくは前から、そして今もこの不安を心の隅に置きっぱなしにしております。この記事を読んでいる大学生や大学院生、大卒のひとたちはどう思い、考えたのでしょうか、聞いてみたい気もします。
 まあ、まず、学問が社会の役に立つわけねーだろキサマこそボケが俺は貴族だぞと言えてしまえばひとまず楽かもしれません(あとで辛いかもしれませんが)が、実際のところは「いやまあ、なんかこういう蓄積が間接的になんか役に立つことも、あのあるんじゃないかと」などと消えそうな言い訳じみた正論をひざの前に並べてバリア張ったふりをしているのが実情です。結局のところ、ぼくはもっぱら自分のために大学に行っている、と言ってよいでしょう。確かにぼくとて社会に、つまりは他者に対してなんらかの形で貢献しようと思う心はあります。ただ、
 ……ああ、いや、やっぱやめた。要すぅに僕は自分のために大学行っているわけで、社会貢献の意思あるいはそれが僕の頭ん中を占める割合が低めだと言ってるんですね。なんかもう、この点はあるていど仕方ないのかななんて思う。このフラットさで今まで来てしまったし、直接に役立つものだけが人間の生に役立つものではないというかなんかあのすいません。やっぱり実学に対する負い目というか劣等感みたいのは強固にある。実学ってなんやろ。経済学とか医学ですかね。いや。そんなのどうでもいいんですけど。とにかく、一旦しかるべき方角に目を向けてみれば、僕なんかは実にのうのうと暢気に生きながらえてるナァと言わざるを得ない。そういう負い目というか劣等感はやはり心の隅に置いてある。たまに目にとまって、立ち止まって、しばらく眺めたら、うやむやに歩きだしてしまう。
 べつにそんなことを語りたいわけではない。あんま面白くないと思うし。突然に切り出してしまうと、学問と、人間と会うこと、それから大学生的なさまざまな体験を通して、人格の陶冶を図る……、これが僕が大学に入った理由としてひとまずまとめてしまえる。うわ。恥ずかしい。でも実際そんな感じです。大学でなくても勉強できると思うだろ。でもやっぱあのう、学問の内容だけじゃないんだなということですね。やっぱり。うだぐだになってきた。放っといても活動する人はいますけど、それはたぶん特殊なんじゃないかな、ふつうは、場が与えられないと、だいたいの方向を示してくれないと動けないんだと。そもそも学校はそういう装置か。ああ装置だなんて妙ちきりんな表現使っちまったなあ。どうでもいいんだけどさ。まー、結局、僕は専門知識を身に付けてそれを直接に社会に役立てるよりは、大学で人間的ななにかを発展させて、そのなんか結局の総体?みたいなもので社会参加を行うのかなー、というほうなのだと思う。どっちが良いとか悪いと言ってるのではない。僕は偶然こっちですヨ、というにすぎない。虫が良すぎますか? これでも書いてて恥ずかしかったんだぜ。それは空々しいからか? いや、実感としては、自分のことを書くのはこう恥ずかしいものなのか……と思いながら書いてたんだけど。すると、今まで書いてたことはだいたい一般論の域を出ないものだったってわけだよね。
 まあだからどうだって話でもないんですね。やっぱり働いてる人などに対して引け目や申し訳なさを感じることは厳然としてあって、この記事でずうっと述べてきた「僕が大学に行く理由」というやつはこの引け目・申し訳なさを一掃するものではありません。この感じから逃れるために理論をでっち上げたのでもないし、引け目・申し訳なさについては別個で考えるべき問題のような気もする。以上、いつもどおり、予定されていた内容を変更してお送りしました。当初は満員電車とかについて語る予定でした。満員電車を快適に過ごすための 5 つのルール、などあれば教えてください。それでは。