テスト投稿

 今日のはわざとわりと読みづらいです。徒然づれづれ。
 テスト投稿、な気持ち。つまり本腰入れた記事じゃないスヨ! という宣言。なんか記事的「記事」を書かねばならぬ雰囲気を感じ取らずにはいられないこのはてなに於ける、免罪符・逃げ・謀反行動。でも、「テスト投稿 vol.2」などとシリーズ化するとアラフシギ、なんらかの意味が読み取れそうな通路が! ちゃんとした記事っぽい体裁! と、はてな世界と僕の意志との妥協点が測れるかもしれない。で、なんだっけ。
 まあ早い話「はてなで無意味な文章を書きたい」地点。もちろん無意味な文章が後ろめたいならば他の場所が用意されているからそちらを利用すればよいのだが、でも制度に背いてみたいヨネ……? という気分もあり、本日はそれが優勢であるわけです。とか言いながら自然々々と整った文章を心がけてる俺って!
 無関係そうで有関係そうな話に転換します。さいきん問題視しているのは、「ネット上のあらゆる文章は日記の文脈で読むことができるか」なのですが、ていうか下手に文字化すると謎が謎としての意味を失ってしまう*1んで困る。取り出し方が悪いのか。謎だったはずなのに自明に思えてしまい、こう、提示してみると即座に「できねーよ」とか「できるに決まってんじゃん」とか言いたくなってしまう。
 ううんまあでも、あとの説明で取り戻せる可能性もあるので続けると、「日記」と銘打っていない記事たとえば、創作とか。ニュースクリップとか。写真とか。詩とか。一言とか。評論とか。が、ネット世界に蔓延しておりますが、こういうものに対して我われは「日記」と捉え、理解し、受け入れることが可能であるのか。
 なんでそんなことする必要があるかって? 僕が日記読みだからです。そして日記読みである人間、とりわけ自分が日記読みであると宣言してしまう人間は近年著しく減少傾向にあると思い込んでいるので、まあすなわちこの記事はほとんど only for me に書かれているということでもあります。生産性を度外視するっていうか。そういうダイアリーを目指そうかなあと考えているわけです。
 こんな日記サイト復古みたいなこと言うと、「時代に取り残された者。日記読みから記事読みに進化せよ!」と言われると思う。この、右翼! と言われるかもしれない。でもまあ自分のサイトなんだし、自由にやらせてくれよ、と僕の客観1号に語りかける。そういう意識的な試みがあってもいいじゃないか、ということ。
 では、考えてみる。創作は日記として読むことができるか?。これは意外といけると思う。そんな気がする。たぶん、なにか感情が震えたときに、思わず詩とか物語とかを作ってしまうひとというのは、いる気がしている。僕は感情が震えたときは日記は滅多に書きませんけど、そういう日記も多く見てきた。表現手段であることは一緒にできるし。今日こんなことがありました、を、文学的表現ないし形式で綴るというのは充分あると思う。逆に、文学的な日記があってもいいわけだ。写真も同じように考えていいはず。
 では、評論はどうか。なんかちょっと難物な気がする。日記との本質的な違いを認めてしまいたくなる。それは、どこに? なんとなく「カタイ」ところ? それなら堅い日記もあるよな? 堅い日記はもはや評論なのか? そうとは言えないんじゃないか。世間に積極的にアタックするところ? かなぁ。してんのかなぁ。意味・主張がハッキリしてる、というのはある。でも形式止まりなんじゃ……という気もする。やっぱり、世間にアタックする日記があってもいいじゃないか! とは思うし、実例もいくつか挙がり始めている。しかし、それは純粋な意味で日記と呼べるのか……
 ――とかまあやってる間に思ったんですが、考え方しだいで表現手段ならなんでも(広義の)日記として見ることができるようだ。ていうか、さっきからの文章はその前提を濫用しているだけじゃないの。すなわち、僕の中では日記が最上段にあり、その分化下に創作・詩・評論・狭義の日記・etc.が並んでいる、ということだ。また偏ったものの見かた展示会になってしまった。俺は自己分析しかできないのかもしれない。
 とにかく、今日の記事は、今後、試験的にグチャグチャ書き綴ったものを上げるかもしれないので、という報告までに受け取ってもらえればいいのかな。課題としては、日記とそれ以外を分けているのはどのようなアタマの働きなのか*2、というあたり。

*1:野矢茂樹『哲学の謎』の「はじめに」参照

*2:伊藤和夫『英文解釈教室 改訂版』の「改訂版へのはしがき」から