周囲の環境がすべてと言えるか

Washington,C.D.
 音楽を聞きながらネットの文章を読むと(まあ少し失礼ですが)、あんがい普段思わないことが思われてくることがある。まあーやっぱり環境って大事だよな、とお決まりの文句を繰り返すことになる。大学に入って変わったことと言えば、第一に行動範囲が急激に広がったことだ。高校の自転車通学では、さほど見栄えのしない(それがまずいとは言わないが)街並みを毎朝毎夕往復するだけの生活であったので、外出といえば十中八九ブックオフというどうしようもない一人の高校生が形成されていった。このように僕はあんまり成功したとはいえない人間のひとりであるので、その原因を外に求めて責任逃れをしようとします……というのは客観B君の意見であって、僕自身はマジで原因がそういうところにあると思っている人です。自由な意思なんてないと本気で思ってます。いや……それはないか。そこまで悲観的というか極端にフラットなまでには至っていない。僕の行動は周囲の環境にだいぶ左右されるけど、ある程度それを自力で制御することもできる……と考えている。ほんとか。自然科学の立場で言えばひとつの原理に収束させたほうがいいんだろうけど。今てきとーなこと言ったかもしれない。まあとりあえずその路線で考えてみると、いくぶんかは僕の意思は周囲のあり方に左右されていると感じている以上、これはどこまでも僕の意思は自由なんかではなく、行動は完全に周囲の環境に支配されている。とまあこう考えるべき、ということになる。確かにこういう考え方はおそらく反証不可能であるゆえ口当たりがいい。自由意思なんてないよ、こう呟いて街を歩いていれば下手な誘惑に迷うこともないし、なにやら自分の存在まで確実なものであるような気がしてくるではないか。(??)……というまあ考えてみたわけですけども、他方でそれを完全に承認するのにも抵抗がある。じゃあ意思がなければアレか、君は自分で動いていないのか? イエス。僕はまさに君や他の周囲の人や木々や道路や車や建物なんかに動かされている。仕方なく……ではなく。仮に僕が仕方ないと思っているならば、それは僕が自発的に思っているんじゃなくて、思わされているのね。みんなにね。でもそれだと恐らく「権利」というやつが成り立たない。権利というのは自分で考えて動くことのできる individual に属するものではないですか。それは権利が「〜する権利」あるいは「〜されない権利」という自由選択の可能性に基づいてるからだ。する権利されない権利は持つけど、それを「しない」ことも「される」ことも認められているという意味で。だから、自由に行動する余地のないものに権利は宿らない(?)はずなんだな。誰も草木に権利を認めは……いや、そういう人はいますね。でもそれは人間の権利の投影であって、ある意味勝手な拡大解釈であると思う。べつに草木なんて人間の好きなよーにむしったり切ったりしていいんだよ、と言うんではなくて、草木が大事なのは権利があるからではなくてなにか別の意味から来てんだろ、ということだ。……
 なんか途中からどっかで聞いたような議論になってしまった。んが。とりあえず僕に意思の自由がないとしたら権利というやつは認められない、それはなんか変だなと思うわけですよね。権利を拒否しちゃえばスッキリするんでしょうけど、今のとこそこまでの勇気はない。