うちに帰ってやることがねえ。のでなんか書きます。この一週間あまりというもの、文章らしき文章を一切ものせず過ごしたので、文章の書きかたを失念してしまっています。ここん来て「何故ブログに上げる文章は丁寧語なのか?」という疑問も毎度の如く顔を出しています。なんというか正直言って――正直言ってというかぼくはいつでも正直に書こうとしていますし、嘘ばかり書こうとしている人だって一般に多くはないはずなのに、「正直」とか、「ぶっちゃけ」とか、前置きをしてしなければならない話がしばしばあるのは何故なのだろうか、と考えてみると、要するにこれらの前置きには「これから言う言葉はきみ〈あるいは話題の人物など〉の気を害するかもしれないけど、実はぼくはこう思っているんだ、気持ちを抑えてぼくの真意を受け取ってくれるよね」という含みがあり、それを用いることは読み手や聞き手に一方的に書き手・話し手への信頼を取りつける行為なのかな、と、ひとまず答えを出してみた*1。――日記書くのだってめんどうくさいのです。本当は親の実家から運んできた書籍に目を通すなどして心を休めたい。でもその前に疲れている。疲れているのだが、ぼくのアタマがぼくの身体を休めることを拒む。何故でしょうね。ここでさっさと布団を敷いてしまえるのがぼくの思う「頭のよい」人間なのです。ぼくも頭のよい人間になりたい。だからこれを書いたらとりあえず横になるつもりです。まあ、「書き終わってから……」などと言っていることがぼくの頭のよくないことを示してはいますが、でもやっぱり書いてしまうんだな。でもそれでは頭がよくならないのでは……

*1:これに似た分析は筒井康隆「現代の言語感覚」(『言語姦覚』所収)にあります