今後の方針とか

 そいで凍結が解除され、ぼくは晴れて自由の身となり、テントウムシ蝶にしがみつき、それはそれでそれとして、本日は今後の執筆態度について述べていこうと思います。やー。他に書くことないのよ。そもそも、この単調な生活に話題がある、という方が訝しいには決まっていますが、であるにもかかわらず、凍結前の僕は矢鱈滅鱈に記事を上げていた記憶がある。今はどうか。30日の謹慎週間を経て「何かを書いて発信したい」という欲が飼い慣らされてしまったのか、「これ、日記のネタになるかも」という精神が冬眠に入ってしまったのか、まあ特にないんですね。このこと自体は別に云云するほどのものではなく、一過性のものだと思いますが。
 ところで日記を一旦止めて、ゆっくり反省してみて気づいたのですが、十月以前、投稿フォームに直接打ち込んだ、一発書きの、こう書き捨て気味に上げた記事というのは、あとで読む際にもどかしい思いをすることになるんですよね。つまり、自分の表現を過不足なく――と言うと大袈裟ですが、まあ、ある程度――吟味し切らないままに考えを書いて、そのまま上げてしまうと、どうしても「ここは違ったなぁ」という箇所が出てくる。そうですね、たとえば前々回の:

いやしかしその背後には「権力」がある、僕は権力でもって勉強させられているのだ、

 これとか。これははてなスターにて「勉強しなさい」とのメッセージを賜り、それに従って勉強した、ということに関しての説明ですが、今考えればここで「権力」と言うのは不適当だった。僕が置かれた状況は、権力というコトバから想像される、「ヤルキナシの状態で、他者から“権力”を行使され、ムリヤリ勉強させられる」という形ではなかったわけです。そもそも、指摘されずとも僕はつねづね「勉強しないとなあ」とは思っているわけで、その状況下で受け取られたメッセージは、僕を勉強させる強力な推進力となった、というよりは、いわゆる「背中を押す」という働きをした、というのが間違いないと思われます。で、その上で僕が「権力」というコトバを使用したのはどういうわけかと言えば、その人の発言に、僕を行動に至らしめるだけの影響力を(僕が勝手に)認めていた、という意識から、なにか実効が伴う間接的な力、というような意味合いで「権力」と言ってみたのでした。……というように、まあ、書き捨て状態だと自分であまり納得いっていない表現にもついついゴーサインを出してしまうことが少なくないわけです。それはやはり望みません、出来るなら、僕の文章を十全な形で世に出してやりたい――。そんな思いが体内に巡り巡って脳内で醸成された結果、打ち出された方針はこう。「記事は何度か推敲してから上げる」。なんのことはない、珍しくもなんともない、まあそういう方針です。そういうわけで今後はひとつの記事にかける時間が増えることが予想されるので、あまり(以前ほど)頻繁に更新はしないつもりです。


 うすうす意識はしてたが、僕の文章は「そう」とか「それ」が多いな。多いな。多い。いくつか「こう」「これ」に置き換えれば印象は軽減されるか、と思われましたが、結局つまり指示語が多すぎる、ということでして。