Mortimer J. Adler, Charles Van Doren, HOW TO READ A BOOK; PART 1

 第一章まで。全部読むのにはだいぶかかりそうなので中断。
How to Read a Book (A Touchstone book)
 こないだの「 HOW TO STUDY 」の感想でしばらく HOW TO 本の強化期間にしようと言ったので、というか同時に amazon で頼んだ本でした。訳本はまえに読んだので、それとの比較を主にメモしてみる。まず、この原著なによりけっこう厚いです。この画像を見ればおわかりいただけると思います: 

 なぜこんなに違いが出るかといえば、訳本ではまず、第三章「 APPROACHES TO DIFFERENT KINDS OF READING MATTER 」と二つの Appendix 「 A Recommended Reading List 」「 Exercises and Tests at the Four Levels of Reading 」あと Index の合計 180 ページ程度が削られていることがあります。あと、訳されている章に関しても削られている文章・文もだいぶある。なので訳本はだいぶスリムになってます。
 この原著がいいのは、説明がくどいことですね。僕のようなボンクラ読者にとっては、くどくどと説明されなければ聞いたことをすぐ忘れてしまうし心から納得もしないわけで。だから入門書としては、特に本の読み方なんていう基礎的なことを説く本としては、一人では本も満足に読めないボンクラ相手に効果がなければ意味ないわけです。まあアメリカの教科書と日本の教科書の違い、のような話であります。

多量の思考のみが

 こんにちは。整理しながら書こうとして挫折しました。楡です。ぜんぜんこの自称がなじまないのでまた変えるか、幾何に戻すか、いっそ本名に……など、通学中や授業中に精神を散歩する材料には事欠きません。まあそれはいいんだけど。悠久に脱線してしまいそうなのでさっさと本題に入りますと、前回前々回で取り上げた話題については今後もこれを考えていきたいと、その過程と成果をこの場に示していきたいという方向で心が進んでおります。まあそんなことは読者諸氏には関係がないんだけども。やっぱりこれまでにも何度も決心し、挫折するまえに忘れていたことですが、結局畢竟つまるところ僕の思考は有り体に言えば浅いんですよね。さきほど前回の日記を読み返していて、「これ違う」というところを見つけたんですよ。二段落目で、自分が書いてて「ウソくせぇ」と思うのは結局内容よりも文章の愉快さ・心地よさを優先してしまって、ないし他者の眼を意識しすぎて自分を偽ることになってしまって、自分の素直な考えが出ていない、とかそういうことを書いたのですが、これは本当は……うーんさっき僕が読んでて直感したのは、お前の文章がウソくせぇのは虚飾によるのではなくむしろ、なにかを説明するにあたって仮ごしらえの理論を適用するので、いわば文章がその論理にDRIVEされてしまっているせいだ、ということなのでした。というかこの自己分析もちょっと揺れ動いてる。そういうふうに、んー、僕にはそう、考慮が足りないんだよなあと思うのですね。書いてるうちにいろいろなことが見えてくる。ただしそれを全部回収するにはよく考えなおして吟味しなければならない。なのについつい一発で答えを出そうとしてしまって、まだまだ検討する余地があるというかところどころ間違いを含む、中途半端なシロモノばかりを作りだすことになる。
 なんかぐだぐだな(こっちの話です)ので結論。「多量の思考のみが納得いく答えを出してくれる」。ということでじっくり考える時間を設けよう。できるだけ。

書けない私が書くために

 なぜ書くか。なぜ日記を書いて、世界のどこかに向けて発表するか。僕はとかく行為の理由を考えてしまう。そういう性質である。なんで大学に行くのか。なんで浪人したのか。なんで哲学科にしたのか。思い返せば、しかしそれらの無数の問いに対して、はっきりした答えを与えられたことは、おそらく一度もない。いろいろ理由らしきものをくっ付けてみたことも数度ではないが、結局のところ「なんとなく」なのです。僕の行動の、決定の根拠は。フィーリングでしかないのです。べつに大学に行かなくとも勉強はできる。どうせ勉強は自習が中心なのだから、大学のレベルがちょっと違うくらいで何が変わるわけでもない。学部学科については最後までぼんやり数学と迷っていた(まあ今でもそうだ)。これらの考えも、もちろん正しいだろうと思う。でも、僕は大学に行って勉強したほうが何かといい気がしたし、浪人してもう一年勉強してみたいと思っていたし、……それはそれなりに理由になっているような。まあとにかく、そんなように思っていたし、哲学科のほうが、まあ、なんだろう。なんだろうなあ。
 ということで一つの線に沿って自らを述べていくとほとんどいつもうまくいかない。というか書いてる途中で「ウソくせぇ」と自分で思ってしまうんですよね。「しかしそれらの無数の問いに対して〜」あたりから思っている。これはつまり他者を強く意識した文章を書いてるつうことで、いきおい自分を虚飾する感じになってきているつうことで、だから「ウソくせぇ」という言葉が出てくるのだろうと思います。むろん他者を意識しつつも嘘を言わない文章も書ける人は書けるし自分だって頑張れば書けないこともないのだろうが、ふとブラウザ開いて 30 分完結で書いてしまうと、つい文章のリズムや表現の心地よさを――作文の快感を優先してしまい、ああ何だ俺何書いてるだとなって所定の 2 倍ほどの分量をさらに付けたしてしまう破目に遭うのです。
 前回のものに関連して。この世にちらばる問題は根本的に解答が確定不能である。だから真面目に、どこまでもまじめに問題に対する答を追及しようという態度をとれば、結局なにも書けずに終わる。だが大半の人はそのことに耐えられない。なんのために書いて発表するのかって言えばそれは他者に読んでもらいたいから、ってのが大方の結論だろうと思う。だから答えが出ないことを(自覚して・無自覚にを問わず)認めたうえで、最終的な答えは出ないことを前提に、なにか書こうとする。このとき少なくとも 2 つの手がある。一つは、そこに横たわる根本的な問いに触れないように、それを所与のものあるいは存在しないものとして、自分にわかっていることだけを書く。それで完結させる。この「根本的な問い」ってのは、べつに哲学的な形而上学的なとかいうんではなく、原理的な不可能さといいますか、……ああああ違うか。彼ら(不定三人称複数)にはこの世界の根本的原理を探究しようなどというたわけた幻想がないのか。その書き手はものごとを理屈で説明することを好まないので、そういう匂いが嗅ぎとれなかったので、僕はなんかつまんないな、と思っていた、そういうわけか。……となんとも唐突に整理がつきましたが、話をつづけます。で最終的な答えをバシィと世界に付きつけてやれない、そんな状況のなか、なにか書こうとすれば、それは 2 つの道がある。ひとつは「書ける範囲で完結させて書く」ということでした。もう一つは、わかんねえわかんねえと言いながらわけわかんないこと書く。これは僕のことです……と言って気づいたが、それは整理が足らないだけではないのか。あ。

好みの話・ばらばらと

 二回ほど文章を書きなおして消した。今日は、すぐれているとは思うが僕が積極的に面白いと思わない日記について考えていた。書いていると自分の考え方に疑問が生じ、それを踏まえてまた書きなおす。そのうちまた自分の態度に疑念を覚え、ふたたび消しては書く。そうして自分の納得いく、一貫した考え方が得られればいいなと思う。「消しゴムで書く」という安部公房の言葉を思い出す。(それにしても小説読まないとなあ)
 さて、何だったかな。僕の好きでない日記についてだった。否定を中央に置く話題を聞くのは好きでない。「何々が嫌いだ」「何々はつまらない」なんていう雑談は、隠れてやれ、と思う。しかし今僕はそういうことを書こうとしているわけで、……うーんいくつかの例外を思い浮かべるに、嫌ったり貶めたりするのもその人のあり方次第だとは思うけども。つまり、……まあ要するに、いたずらに嫌うことをせず、それだけの確固たる理由をもって嫌え、ということなのだと思う。この文章は、そんな「嫌うための確固たる理由」を探すためのものになる。なんて言うとちょっと狡いですね。んー。でもそんなところだ。
 僕の好きでない日記。それは一言でいうと、完成されている日記、到達してしまっている日記、そんなところだ。もちろんこれには例外もあるから、これは仮の規定ではある。ではなぜ好きでないか。おそらく、……
 ちょっとタイム。たぶんこの文章も、このまま書いていくと消される宿命にありそうだ。それは僕のなかでこの問いに対する答えが未だ固まっていないからだ。しかしここまでで出てきた内容は消すには惜しい。いやもちろん惜しみなく消して何度となく書きなおしてこそ強靭な文章が出来上がるはずだ。だけど今日は今日のうちにはそれは無理そうだ。だからとりあえず今日はここまで考えましたよ(って……結局本題はなんも進んでないけども)という活動記録として、この文章はこのまま残しておこうと思う。
 さて、なんで今日のうちには結論が出ないと思ったのか。実は参考にと思って、この文章を書くのに念頭に置いていたサイトの文章を読んでいたのですが、そのひとは言葉について、ほんとうの言葉で(そんなものがあれば)語ることのむずかしさ、について書いていた(そういうふうに読んだ)。それを読んで、ああなんかこれは自分の思考からも最終的には「言語」というものと対決しなければならないのではないか……と思ってしまったのです。言語と対決するのはほんとうに面倒で、それはまあ直感的に納得していただけるのではないかと思います。これで直ぐに答えを出すのはムリ。ところで、そのサイトの日記を読んでもうひとつ気づいたのは、その日記はいわば一話完結している。完結しているということはいちおうの答えが出ているということである。しかるにその日記は答えの出ない話題を扱っている(だって、「言葉」だぜ……)。答えの出ない話題を扱いながら答えが出ている、これは何かといえば、その筆者にとって語れる部分だけを語っているということだ。だから答えが出ているように見えるけれど、それは問題の核心を仕留めるものではない。なのにアレだ、彼はあたかも答えが出たかのようにふるまい、記事の内容を簡潔に表すタイトルさえつけてしまっているではないか……みたいな、そのあたり。そのあたりが整理されてないし最終的な結論だと言えるまで考えてもいない。
 たぶんこの世には答えの出ない問題がたくさんあって(というか、ほとんどがそれだと思う)、僕は結局のところそこが気になるのに、それにまともに取り合うことを避けて迂回して、根本のとこは知らんがこういうことは言えるよね、ということだけ述べて終わっちゃってる、この話はここで終わり、としてる(ふうに見える)ことに対する違和感、なのかもしれない。本当はハッキリしたことなんて言えないで仮の答えを述べた(あるいは手がかりを提示した)だけなのにそれが本答なのだよというフリをしていることを。いや、たぶん、実際のところは、提示されているのが仮の答えだったのはみんな知っていて、だからそこは省略してるんだよ、っちゅうオチなのかもしれないけど。とにかく、もうしばらく考えないとダメだ。

Arthur W. Kornhauser, HOW TO STUDY

 表記のしかたを洋書のっぽくしてみたよ!という話。
How to Study: Suggestions for High-School and College Students (Chicago Guides to Academic Life)
 洋書を読んでみたよ、という話ですね。実は或る別の洋書を今年の三月に買っており少しだけ読んだのだが、それは他の仕事や学校がはじまるとともにうやむやに……という話でございます。そういえば七月くらいにもまた別の洋書を途中まで読んでいて、そのうち他のが読みたくなってしまって投げっ放しだわ、という話もありました。というように洋書を読みたいナァという気持ちはけっこう前からあって、それがなかなか実行に移されていなかったわけですけども、今回ついに一冊読了と相成りました。やったね。この本、本文が 50pp. ていどの薄いブックレットなので読めたんでしょうね。内容もわかりやすい、というかもともと(頭では)分かってることだし。
 頭ではね。頭では分かってるんですよね。タイトルの通り、これは勉強の仕方を説いている本で( "HOW TO STUDY" だなんてド直球すぎる! 日本ではこういうのない気がする)、うん、タイトルがド直球なら内容もド直球なのでして、適切な環境で勉強しようねとか、目的をはっきりさせよとか、知識を関連づけようとか、もう本当に当たり前のことばかり書いてあります。なんかハッと驚く勉強法とかは、ない。しかし振り返ってみれば自分はここに書かれている“あたりまえのこと”を十全に実施できていないわけです。あたりまえのことをあたりまえに行う、って難しいよなあとつくづく思う。たぶんそれが(それさえ)出来ていればごく普通に第一志望の大学に行けていたはずよ。そういうことだと思います。
 さて、あたりまえのことをあたりまえに行うのは難しい。そう考えたとき、このような「あたりまえのこと」が書かれている本を読む意味は大いにある。つまり、ぼんやりと考えていた・頭に思い浮かべていたことを、はっきりと文章に読むことで、考えが整理される。あるいは他者の言葉として受け入れることで、その内容の重要さを認識する。やっぱり深層で思うだけでは practice には至らないし、一人で考えてるだけだと――考えの支持者・保証者がいないと、これ独断じゃないのかなあと思って自信がもてない。という話ですね。そういうことなのでしばらく HOW TO 本強化期間にしようかなあと構想しているところです。
 あたりまえのことが書かれているこの本で、しかし特に印象に残ったのは、勉強しているときに直前の内容を思い起こす、根幹をつかみ、諸知識を有機的に結びつけ、明確な理解をめざす――ことの重要さが繰り返し訴えられていたことですね。勉強のなかではこの作業に時間の大半が費やされる、のようなことを著者は言ってます。結局これが大事なんだろうなあと思う。例えば本を読んでいるとき、ついついめんどうに思って飛ばしちゃうプロセスなのですが、これがなければまったく勉強にはならんわけですよね。うーん遠い昔はそんなことしなくても「わかってた」気がするが……無意識にやってたのかな。ともかく今は意識的にやんないとなあ、と肝に銘じます。
 というわけで素晴らしい本なので日本でもっと読まれるべきだ、翻訳出てないなんて、ったく……と思っていたら、出てました。すいません。英語読むのかったるいよという人はこちらを。ただ表紙があんまり格好よくないなあ。

[高等教育シリーズ] 大学で勉強する方法

[高等教育シリーズ] 大学で勉強する方法

妄誕Fについて

 私の公称パーソナルサイトであるところの妄誕Fですが、一度トップページなど一部を改装ののち「ここを基軸にします!」つって更新していく感じを出していたのだが、あれから一度も微動だに更新していなかったのは申し訳ない。重ねてすこし前まではアンテナに気を使わなかったせいでニンジャサーバの千変万化するテキスト公告のせいで更新してないのにアンテナが上がりまくっていたのにはいくら頭を下げても足りません。これは謝りすぎですが、まあ、以上以下のことを明らかにしておきます。
 更新しなかったわけは他でもないなんでもない、コンテンツの作成が思うようにはかどらなかったためというか、やっぱ html やるにはそれなりに気合いの入った決断のこもった時間の使いかたが必要とされるナァという話で、あのーーソフトドリンクのページは現在表示されてるのに加えて一箇月くらい分は用意してあるんです。例えば。でも実はあのう、あのページには文章に加えてソフトドリンクの缶なりボトルなりの写真を添える方向で検討していたのですが、実際その写真も(携帯で)撮りためて、SDカードに移すことまでしていたのですが、それをパソコンに移行して適切な形式に落しこみ html ファイルに記述を書き足すというプロセスを厭うてしまい、ついつい写真はたまっていくばかり、実行されないタスクは積もりゆき、めんどうくささが増し、やらないために面倒になる悪循環に巻き込まれてここまで来てしまいました。そんな感じでだんだんテキストベースの記録さえもめんどうになってきてしまい、最近は完全にファイルの更新を打ち切ってしまいました。
 のでした。そんなこと長々と書いてもね、というものなのだが。うーーん。妄誕Fにかんしては今後使わない気ではないんだが。ただ現状の忙しさ加減……というかネット以外に費やす時間の割合からして、つまり日記を更新してしまうような心のヒマさの減少からして、あんまし欲張ったカリキュラムで更新していくことはできない。だので、たぶんパッと脊髄反射に即座に書くようなものを当ブログで、より落ち着いたコンテンツ(まだまだ先になりそうだが)は妄誕Fに置く――そんな感じで使っていきたいと思う。ので、たぶん今後は本の感想とかソフトドリンクの話もこっちに書きます。ソフトドリンクは飲むたび書いてるとキリがないし義務化して辛いので、これはと思うやつをピックアップする形で。

なんか書く

 それにしても、僕のパソコンの性能は悪い。どう悪いかといえば、たとえば立ち上げてしばらくは文字変換をするのに十数秒ためらう。なにもしてないのにブラウザが止まる。といったことです。コンピュータ自体は去年の夏に新品で購入したものなので、たぶん評判の悪いウィンドウズビスタという OS のほうに問題があるのだろうと見当をつけてはいますが。当分買い換える気配もありません。だからそれを確かめる術もありません。
 なんか書くって言ったのだが、実のところ、書きたいこと/書くべきこと/書けることはたくさんあって、何から書いたらいいか、何を書いたらいいか、ともかく全部を書ききることは体力的集中力的にむつかしいので、取捨選択しながら、少しだけ慎重に、書いていかなければならない。ところで、以前、ふだんは、「書くことがない」とつぶやきながらキーを叩いて日記を書いていたものだった。それは確かにそうだったのだ。毎日家と学校を往復する日々、学校で何か大きな事件があるわけでもない、いくつか心に引っかかることはあっても、それは日記に書きしるすことではなかった。今でも、程度の差はあれ、それと同じ状況を生活しているんだと思う。べつに、日々がドラマに満ちているわけではないし、仮にそうだとしても、僕は日記というものはドラマを書きしるす場ではないと理解している。――でも、日々思うことはいろいろあるわけで、それは日記に書くのにふさわしい小さなエレメントが散らばっているわけで、僕はいまそれらについて書きしるそうとしている。――あの頃の僕と今の僕と何が違うかといえば、メモ帳を持ち歩いていること、である。もちろん昔は昔で、思うことはいろいろあった。むしろ、昔のほうが豊かにものを思っていたともいえる。ただ、それを逐一憶えていくすべを持たなかったのだ。大学に入ってしばらくしてから、僕はメモ帳を買い、持ち歩きはじめた。来る用事や調べておきたい本、その他気にかかることを記した。さいきんは特にメモの量が増えている。それは僕がすごくいろいろなことを考え、読み、知的にアクティヴな生活を送っていることを指し示すのではなく、一年間かかっても一つのメモ帳も消費できない知的水準ってどうなの、って思い始めたからだ。とにかく大学一年生が終わるまでにこのメモ帳をきれいに埋め尽くしてしまいたい、そう思って、積極的にメモしていくことにした。まず、以前に書いたことでも、それが完遂されていないのならば何度でも繰り返し登場させることにした。それは大事なことを忘れないためでもあるし、また、途中で書き忘れていくことを落としていくとより大事なものが浮かび上がって面白いだろうと理由づけた。それから、日々考えることども、その過程を書いていくことにした。この日記でつらつら右往左往しながらやっているようなことを、メモ帳の上でも行っているわけである。もちろんメモ程度なので、要点を示すにとどまるが、これもいいスペース消費になっている。
 一体何を書こうとしたのだったかな。要するに、メモ帳を導入したので日々のよしなしごとがほぼ悉く記録され、ほっとけば忘却の彼方へスロウアウトの事柄も残っていくので、そして僕はほっとけば大半の事柄をスロウアウトしてしまうので、こうして書き残していくと日記のネタには困んないなあ、そういうようなことを書こうとしていた。でもなんか回顧っぽくなって、自然な傾向として感傷っぽくなって、どこか語りが村上春樹じみてきて……のようになってしまいました。スイマセン。このどこが春樹なんだこの野朗、という向きもありましょうがそれは僕のなかでの春樹の語り像を言ってるのでそのように理解していただきたく思います。ほんとうは、いやほんとうはそのメモ帳に書きつけたよしなしごとお蔵出しコーナーに陥るつもりだったのですけども。仕方ありません。それではまた。